イジワル御曹司に愛されています
それでもやっぱり
ついでに、見たい景色が見られるとも限らないということも、失念していた。

劣等感は頭をくもらせる。

なんてね、とぼんやり部屋の天井を見上げた。服がしわになっちゃうなあと頭の片隅にはあるものの、起き上がって着替える気力もない。

これが失恋というものか。どっとくたびれはしたものの、案外私、普通だ。どうしよう、髪とか切るべき?

ああ、そうか、と気がついた。恋が破れても、服の趣味が変わるわけでも仕事がなくなるわけでも、おなかがすかなくなるわけでもない。日常はいつも通りやってきて、今日も昨日までの自分と、なにも変わらない。

それじゃどうにも気持ちの始末がつかないから、失恋という出来事を、どうにか大きなものに仕立て上げたくて、"髪を切る"という文化が生まれたんだろう。今も残っているのかどうか、知らないけれど。

肩に軽く乗るくらいのくせっ毛をつまんで見つめてみる。切るほど長さがないので、私はいいや。


──ごめん。


頭の中に響くのは、都筑くんの声。


──ごめん、千野は、そういうんじゃない。


拒否された当の私より、よっぽどきつそうだった。あんなこと、言わせるんじゃなかった。私こそごめん、都筑くん。

もっと慣れているんだと思っていたのに。さらっと相手を傷つけず、断る技術を会得している人なんだとばかり、思っていたのに。

真っ青な顔で、歯を食いしばって手を握りしめて、目をぎゅっと閉じて。それで『ごめん』なんて言われたら、こっちが慰めてあげたくなってしまった。大丈夫だから気にしないでって、励ましたくなってしまった。


「できたらよかったのに」


実際の私は、想いを打ち明けて消耗したところに、そんな都筑くんを見てショックを受けてしまい、なにも言えなかった。沈黙の後、都筑くんは『ごめん』ともう一度言って、駅に入っていった。

困ったなあ。さすがに今は、気力を使い果たしてぐったりだけれど、私、元気だ。都筑くんへの想いも変わらない。むしろはっきりした。やっぱり好き。

けれど彼の退職は、もう目の前。

今出ない涙が溜まりに溜まって、いずれ激しく泣くときが来る気がする。


* * *


「残念だなあ、いや、ごめんね、気持ちよく送り出す気持ちはもちろんあるんだけど…残念だなあ」


しきりにお別れを惜しむ松原さんに、都筑くんが苦笑した。
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