イジワル御曹司に愛されています
ずっとずっと
「千野さん、お疲れさま」


待ちかねていた姿を視界に入れたとたん、私は飛びついた。


「松原さん! お待ちしてました!」

「え、泣くほど? 照れちゃうな」

「英語がわからないんです…」


展示会初日。湾岸の埋め立て地にそびえたつ展示場の一角で、私は震えていた。

この展示会に出展するということの意味を、決して侮ってはいなかったつもりなのだけれど、理解できてもいなかった。ひっきりなしに舞い込む商談、それもあらゆる国の方から。

私の英語は、日常会話ならなんとかなるものの、ビジネスの会話ができるレベルじゃない。

ちょうど待たせていたブルガリアのお客様のほうへ松原さんを引っ張っていくと、さすが留学、駐在経験者は、臆する気配も見せずに弾んだ会話を繰り広げてみせた。

全日程、松原さんを担当者として入れておけばよかった。いや、今からでも入れてしまおうか…。


「消耗してるねー」

「ただでさえ不慣れなところに、英語クライシスが…」


お昼の休憩に入ったところで、松原さんが慰めてくれた。ブースの一部を衝立で仕切った極小の控え室で、ストックしてあるお茶のペットボトルを彼の前に置く。


「ありがと。人前でしゃべるのは、講習会で慣れてるだろうに」

「こんなに勝手が違うと思いませんでした」

「じゃあ、やっぱり出展してよかったね。ほかのみんなも同じ苦労をしてるでしょ。いい経験になってると思うよ。都筑くんに感謝だ」


ワイシャツ姿で頬杖をついて、にこっと笑う。その名前が出て、どきっとしてしまったのは胸にしまっておこう。


「あの、例文をいくつか教えていただけませんか、簡単なものを」

「そうだね、書いて置いていくから、みんなで共有して。ちょっと会話した感じ、必要そうなのは…『試薬の卸は、現在は行っておりません』」

「『教授への連絡は、協会を通す必要はありません。個別にお願いします』」

「『展示資料の配布は行っておりません』…これは、すぐに手配しようね」

「『後ほどメールを差し上げますので、アドレスを教えてください』」

「中学校出てるよね!?」

「焦るとびっくりするくらい話せないんです!」
< 138 / 196 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop