イジワル御曹司に愛されています
「寿って名前、屋号からつけたんだな」

「うん、ありがたいけど手抜きだよね」

「いい名前じゃん。俺は好きだよ」


正直に言ったら、千野が真っ赤になった。赤くなるような場面だったかと首をひねりつつも、突っ込むほどでもないので観察するにとどめる。


「そうとわかれば、ふらっと遭遇したりできないな。都筑の人間として、日を改めてご挨拶しないと」

「やめてよ…地元の有力者にそんなことされたら、お父さんたち圧でつぶれちゃうよ…」

「だから、千野んちのほうがずっと由緒正しいんだって」

「それはそれ、これはこれで…」


千野ってたまに、しょうもないことで停滞するよなあ、と木の根のこぶの上で器用に丸くなっている姿を見つめる。

なんでもない、そんな一瞬一瞬が愛しくて、好きだと思う。笑っているところも、ひとりの世界に入っているところも、恥ずかしがっているところも、同じように大事で、かわいいなあと感じて、そんな顔をそばで見せてくれることに、感謝したくなる。

以前ふと思い出した、高校のころのある記憶。

廊下で千野が泣いていた。友だちらしい女子に抱きついて、肩を震わせて。

名央は、ここで声をかけたらさすがに嫌がられるだろうなと思いながらも、なにがあったのか気になって、友だちのほうに『どしたの』と聞いたのだ。

その女子は、聞いてきたのが誰だか気づくと一瞬ぎょっとし、千野を守るように胸に抱きしめながら教えてくれた。


『昨日のコンクールで、ピッコロを持ち替えで担当してたの。でもソロで失敗しちゃって、そのせいじゃないんだけど、学校も入賞を逃しちゃって…』


半分ほどしか理解できなかったが、要するに責任を感じて、役目をまっとうできなかったのが悔しくて泣いているのだろうことは、一応部活経験者である名央にもわかった。

憧れだった。

そんなふうに泣けるまっすぐさ、打ち込めるものがある純粋さ。毎日一所懸命に過ごしていて、自分や周りの人間を大切にしていて、同じように大切にされていて。


「俺さあ…」


改めて湧き上がってきた、そんな思いを、言葉で伝えたくなり、口を開いたものの、すぐに思い直した。

どうせ信じないだろう、千野は。
< 191 / 196 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop