イジワルな彼に今日も狙われているんです。
「──さなえ、」



突然、何の前触れもなく自分の名前を呼ばれて硬直する。

知らない。降って来た声はたしかに聞き慣れたもののはずだけど、その声の持ち主は私のことをこんなふうには呼ばない。

だから、たった今自分の名前を呼んだ相手は、きっと知らない人なのだと思った。けれども騒ぐ胸を抑えてそっと顔を上げた私は、自らその考えを否定していたくせに『やっぱり』とも心の片隅でつぶやく。

そこにいたのは、憎たらしいほどに涼しい表情で笑う“彼”で。



「ごめんさなえ、待たせて悪かった。怒ってる?」

「お、がたさ……」

「思ったより仕事長引いちゃってさ。で、こちらの方は?」



呆然としている私は完全にスルーだ。傍らで棒立ちになっていた男性に、尾形さんはあくまで営業スマイルのまま目を向けた。

そこでようやくハッとしたらしい男性が、急にあせり出す。



「あ、彼氏、来たんだね。よかったよかった」



取り繕ったような笑みは、動揺が全面に出てしまっていてどう見ても失敗していた。しどろもどろつぶやいたかと思えば、男性はそそくさとこの場を離れる。

ほとんどダッシュともいえるすばやさで去った男の後ろ姿を見送った尾形さんが、その口元を邪悪につり上げた。



「ハ、だっせぇ」

「……尾形さん、なんで」



鼻で笑う彼を、未だ呆けたように見つめる。

そんな私に向き直った尾形さんは、その整った顔面に今度こそ作り物じゃない苦笑を浮かべた。



「『なんで』って、約束してただろ。とりあえず、ここはもう出るか」



彼の言葉で気付いた。今の私たちは、なんだかまわりに注目されている。

あまり大きな声は出していなかったつもりだけど、異なる客が陣取るテーブルとテーブルの間はそれなりに距離が近いのだ。どうやら私がいた席の周囲の人たちは、さっきまでのやり取りを固唾を飲んで見守っていたらしい。

とたん急激な恥ずかしさに襲われてしまった私は、熱くなった頬を満足に隠すこともできないまま。まわりのテーブルにペコペコと頭を下げつつ、前を颯爽と歩くコートの背中を追いかけたのだった。
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