ダブルベッド・シンドローム
北山さんは、専務室の入口をノックすると、中から「どうぞ」という声がしたのを確認して、ドアを開けた。
「すみません、お呼びしてしまって。」
「いえ。」
よく考えれば、帰りも、専務にまた車で一緒に帰ってもらわねばいけなかった。
ここへは専務の車で来て、ついでに実家からマンションまでの行き来も彼の車でしか移動したことがないのだから、今から電車で帰ってくれと言われても、どうやって帰るべきか、最寄り駅はどこなのか、すぐには分からなかった。
呼ばれて好都合であった。
「菜々子さん。社長が戻っていますから、顔を見せに行きましょう。業務時間外なのに申し訳ないのですが。僕も行きますので。」
エレベーターで北山さんが言っていたとおり、専務は私に社長に顔を見せに行ってほしかっただけなのだ。
そうすれば社長の機嫌が良くなるのだろう。
それにしても専務は、「初日はどうでしたか」くらいの言葉をかけてくれても良かったのではないか。
北山さんですらかけてくれたのだ。
専務は、優しいし、気が利くけれど、そういう肝心の、心のこもった言葉が抜けてしまうことが多かった。
北山さんは確実にそれに気づいているけれど、彼に促すこともなく、ただ指示に従うだけだった。
北山さんは車を動かす、と言って、社長室へは行かずに、またエレベーターで降りていった。