ダブルベッド・シンドローム
「あのね、宮田さん。こちらも実物が出てくるまではね、あなたの言うことを信じようとも思ってたんだけどね。」
橋田部長は、心にもないことを言っていた。
最初から疑っていたくせに何を言っているのだ、と思ったが、今の状況はそういう言葉遊びをしている場合ではないということを、私は十分肌で感じていた。
「あの、専務。信じてください。」
専務の猫のような目は、静かに私を見ていた。
もう私には、この人に、情で訴えかけることしか手立てがなかったのだ。
このときの私の頭の中には、あの夜、私にキスをした専務の顔がぐるぐるとしていた。
「菜々子さん、もちろん、僕は菜々子さんを信じたいと思っています。そのためには、納得できる説明が欲しいのです。」
すぐに頭を切り替えて、お望み通りの説明を考えることにして、私は用意できる物証があることを思い出した。
「専務、思い出してください、私、社員証を壊されてるんです。」
橋田部長は、私と専務だけの話になったのが気に食わないらしく、先程よりイライラした様子で、「社員証?」と口を挟んだ。
私は、橋田部長からバックを奪い取って、小さいクリアファイルの中に仕舞っていた「物証」を、三人の前に提示した。
裁断された社員証である。
社員証を再発行したことに対し、いつでも「無くしたわけではない」と言えるように、ここ最近は意識して持ち歩いているのだ。
「私は先日、誰かに社員証を盗られました。その後、シュレッダーのくずの中からこうして見つけたんです。思い出したのですが、実は私、社員証の裏に、設定したログインパスワードを書き込んでいたんです。書き込んでいたというか、パスワードを書いた付箋を貼っていました。忘れてしまいそうで、怖かったので。・・・ですから、私の社員証を盗んだ人は、少なくとも、私のフリをしてログインすることが、可能だったと思うんです。IDとパスワードが、見て分かっていたはずですから。」
「あ、そう。じゃあ、君のバックから出てきたこのUSBは、一体何なの?」
「ですから!それも、その人が私に恨みがあって、そうしたんじゃないんですか!?私は知らないですけども!」
遂に声を荒くすると、橋田部長はまた、お得意の舌打ちをしてみせた。
しかし、逃げ道のなかったように思われた事態も、私の説明によって、一応は筋が通ったように感じたのは、勘違いではなかったようである。
橋田部長がさらに怒り出したというのは、つまり、私の不利が決定的ではなくなったということなのだ。