ダブルベッド・シンドローム
この会議室で、専務は私の期待する言葉を、何一つくれなかったのだ。
私が期待していたのは、「菜々子さんがそんなことをするはずがありません」というような言葉であり、婚約者であるなら当然に、そう言ってくれてもおかしくはないはずだ。
いや、婚約者であるかどうかよりも、私はそういう人間ではないし、そういう人間ではないという振る舞いをしてきたと、自信を持って言えるのだ。
専務にはそう思われていなかったのだろうか。
「・・・専務。」
いや、きっと違うのだ。
専務は、何を優先すべきかを、自分の中で決めることができずにいるのだ。
私がこの会社の機密情報を漏らそうとしているのなら、それは、私が専務にとって優先順位の最も高い「社長」の体裁を脅かすことになる。
しかし、今の状況で私を疑い、責めることが、私を気に入っていた「社長」の意に沿っているかどうか、それもまだ判断はつかない。
ならば、普通は、自分は何を信じるべきか、まずは自分の経験の中から探し出すだろう。
専務はそれをしないのだ。
「社長」が答えを出すまで、自分は答えを見つけ出そうとしないまま、先送りにしただけだ。
「菜々子さん、社長が戻るまで、専務室で待ちましょう。今日の業務は切り上げていただいて大丈夫ですので。」
「専務。」
「はい。」
「私、もう専務とやっていく自信がありません。」
「え?」
情のない人間は、私の一番苦手な人間である。
どんなに合わない生活をしていようと、どんなに違った環境で育ってこようと、人を許すことや、信じることに長けている人間なら、私は距離を縮めていくことにやぶさかではない。
彼が私の料理を美味しいと言ったとき、私にキスをしたとき、私は彼にも、人並みの情があると判断した。
それは心のこもった言葉が欠落していても、心の内側に情があるのであれば、これから改善するとも思ったし、情があるのであれば、言葉が欠落しても、私は読み取れる自信があった。
彼と共にやっていく自信があった。
しかし今、その自信は地に落ちた。
彼は、婚約者の言葉を無条件で信じる、そんな簡単な情さえ持ち合わせていなかった。
情のない人間というは、いつも私の「理解」という壁の外側にいて、彼らがハシゴを使ってその壁を越えてくることはなく、また、彼らに越える努力をするという概念が存在しないことも知っていた。
また、私からハシゴを登り、壁の向こう側、つまりは「情のない」世界へ行くことは、それは私の人生で必要のないことだ。
情を捨てるくらいなら、専務なんて、結婚なんて、いらないのだ。