ダブルベッド・シンドローム
「ええ、ほんと、すごい偶然でした。」
「勤めていた病院の同僚の方だったんですか?」
「はい。お医者さんです。」
関係者の誰からも死角となっているこの場所は、大変居心地が良かったのだが、専務はずっとここに留まっているわけにはいかないらしく、私と話をしながらも、会場の中心の方へと歩みを進めていった。
再び浜田先生の姿も見えてきたが、彼は持ち前の性格で、どの人とも楽しそうに打ち解けていた。
その様子を見ていると、昔、先生に憧れていたころ、その輪の中に入りたくて仕方なかった自分を思い出した。
ユリカと一緒にいるだけで、簡単にそこに入ることができたのだ。
「菜々子さん。」
ふいに、専務は足を止めた。
「は、はい。」
彼は涼やかな瞳で、真っ直ぐに私を見ていて、そこに焦点を合わせたことで、もう先生の姿は見失ってしまった。
「僕のことは、名前で呼んでいただけますか。」
「え、」
周囲には、多くの人のガヤガヤとした声がたちこめていたはずなのだが、その瞬間は、私には、私と専務だけとなった。
専務も、私以外の何も目には入れていないようで、その焦点と焦点は、きっちりお互いの姿だけを切り取っていた。
「以前はそのようにしていただいていたと思うのですが、仕事が絡むようになってから、もうずっと名前を呼んでいただけていないので。もう仕事でもプライベートでも、僕のことは名前で呼んでいただけますか。」
「す、すみません、慶一さん。直します。」
「・・・申し訳ありません。子供のようなことを言いました。」
以前は、慶一さんと呼ぶことが普通であったのだから、今さら恥ずかしく思うことはないのだが、疑問なのは、何故今さらそれを気にし出したのかということである。
もしや先程、浜田先生に妬いたのか、と、とんでもない考えがすぐに浮かび、そして彼に限ってそんなわけはないと思い直したのだが、口元を押さえて恥ずかしそうに顔を背ける慶一さんの全く見たことのない表情を確認したことで、いややはりそうなのだ、と思うこととなった。
「慶一さん・・・」
「すみません、忘れてください。」
「いいえ、忘れられませんよ、すごく、嬉しいですから。」
慶一さんが嫉妬という感情を、鈍感に押し潰すことをしなかったことが、何より嬉しかった。
私に対して、鈍感でいる必要性を感じていないということは、恋人として心を開いているということであるからた。