ダブルベッド・シンドローム
しかし、もしかして、桜さんにも大切な人がいるのではないかと、そんなことを思ったのは、彼女がいつも持っている手帳にとある電話番号が書かれているのを見つけたときである。
手帳の、裏表紙に、鉛筆で走り書きをしたような字で一つ書いてあって、それをさらに清書したのだろう、次のメモ用紙の部分に、ボールペンで同じ番号が書かれていた。
携帯の番号だった。
私は、その番号について話したことがある。
「桜さん、その携帯番号は、いつも来る方の番号ですか?」
「まさか!あのおババの電話番号なんて知らないよ。向こうが勝手に来るの。もっと大切な人の番号なんだから。」
「大切な人?誰ですか?男の人?」
「まあね。もう、別れてるんだけどさ。もう一生、ここに電話することなんてないんだけど。でもさ、ここに番号が書いてあると、私いつでも、あの人に、連絡できる、繋がっていられるような気がするの。ああ、でも、絶対に、掛けちゃ駄目なんだけどね。私がこの番号に電話なんてしようとするものなら、菜々子ちゃん、あなたが止めてくれる?」
「どうしてですか?」
「どうしても。お願い。私、きっと死ぬ直前は、さすがに寂しくなると思うんだよ。そしたら、ここに電話をかけてしまうかもしれない。でも、それはしてはいけないの。だから、止めてね、菜々子ちゃん。信じてるから。」
「・・・分かりました。約束します。」
「お願いね。」
私はそこで、安易な約束をしてしまった。
この約束について、私は字面を理解しただけであり、その意味を、深く考えてはいなかった。
もちろん、その意味を深く考えてほしいと、桜さんは望んでなどいなかったと思うのだが、それでも、私はもし、その約束を守れないような事態に陥るくらいなら、それなら、なぜそうしなければならないのか、きちんと理由を聞いておくべきだったのだ。
私は、看護師として、日々、誰かに感謝され、誰かの命を救い、誰かの希望となることが日常であり、それが私の仕事の一部となったことで、それがどんなに特別で、素晴らしいことなのかを忘れていたのだ。
人が生きてきた中の、最後の時間をこの病院で、私の手の中で終えるというときに、そこで私は何もできないのに、その人の人生に、何も手を加えることなど許されていないのに。
私はそれができると、傲っていたのだ。