好きにならなければ良かったのに

 一方、営業部一課を飛び出した晴海と、その後を追って行った吉富はその頃屋上にいた。屋上の転落防止ネットの前に立ち竦み、街並みを眺めている晴海がいる。その後ろで吉富が晴海の様子を窺っている。

「何してるの? 仕事に戻りなさいよ」
「晴海ちゃんも戻らなきゃ、みんな心配していると思うけどな」
「誰も私の心配なんてしてないわよ」

 ネットに手を掛けると晴海はそのままギュっと握り締める。力の入るその手からネットの硬さが痛みとして伝わり、まるで心の痛みの様に感じてしまう。

「怪我するよ」
「いいのよ、別に。だって、あの人とはもう一緒に仕事ができないんだから」
「だから何?」

 吉富のふざけた物言いが真面目な口調へと変わる。それも低い声で晴海をたしなめる様に。
 晴海はその声にフッと笑うと振り返り吉富の顔を真っ直ぐ見つめる。

「私がこれまで頑張ってこられたのは何故だか分かる? でもね、あなたには分からないわ」
「そんなの分かりたくもないね。俺は、晴海ちゃんが辛そうな顔をしているのが嫌なだけだ。晴海ちゃんがいつも顔を歪めて神経尖らせて、言いたくない厭味言って皆に嫌われて。昔の晴海ちゃんはそんな女じゃなかった」

 吉富の言葉に晴海の顔はますます歪んでいく。そして吉富の傍へと駆け寄り思いっきり平手を喰らわせようと右手を振りかざす。
 吉富は晴海に叩かれるのは分かっていても、その場から身動き一つせずに立ったままでいる。晴海の瞳をジッと見つめ乍ら。

 全く動かない吉富を相手に、流石の晴海も手は出せないのか上げた手の動きが止まる。上げたまま手は下ろしていないが、このままこの手をどうすれば良いのか、思わず晴海は思い悩んでしまう。

「あんたなんか嫌いよ」
「何も感じないよりはマシだよ」
「何も知らない癖に、もう、私にちょっかい出さないで」
「それは無理な相談ってもんさ」

 吉富は一歩前へと足を出し晴海に近づく。晴海は吉富が近づくと一歩後ろへと下がるが手は上げたままで、いつ吉富の頬へヒットするか分からない状態ではある。すると、もう一歩前へと足を出した吉富へ振りかざした手を頬目がけ動かした。吉富はその手を止めることをせずに晴海の平手打ちを受けた。

「なんで、何でよけないの?」
「俺がよけたら晴海ちゃんはもっと悔しがるだろう?」
「あんたバカじゃないの?」

 晴海の瞳に涙が溢れる。その涙が頬を伝い流れ落ちると、吉富はまた一歩と晴海に近づく。そして、流れる涙を指で拭い取る。



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