好きにならなければ良かったのに

 これまで課長である幸司に色々な提案をしてきた。それが少々やり過ぎたことであったとしても、そんなセリフを言われたことなどこれまで一度たりともなかった。

 なのに、何故、新入社員のこととなるとここまで熱く反応するのか香川はそれが不思議でならない。

 しかし、課長の幸司を怒らせては折角これまでの実績が全て無駄になってしまう。それに、開拓した顧客を失ってしまってはこれまでの時間を無駄にしたことになる。

 仕方なくここは引きさがるしかないと香川は荷物を持つと幸司に軽く会釈をし会議室を出て行った。

 香川が出て行った会議室のテーブルを見渡し、少し眉間にシワを寄せる幸司が大きな溜息を吐くと、そのまま椅子を引きそこへ腰かける。

「香川の補佐にか……」

 背もたれに体を預け深く座る幸司は、脚を組むと遠い目をしてテーブルを何気なく見ている。すると、テーブルと同じ色の小さなパスケースの様なものが目に入る。無色透明の名刺サイズのケースで、同色のストラップ付のものだ。誰のものだろうかと、裏返しになっているパスケースを手に取り、名前を確認するとそれは美幸の名札だった。

「大石美幸」

 ポツリとその名前を口にすると名札を持って会議室から出て行く。廊下へ出た幸司はそこで晴海と梅沢恵子の二人と鉢合わせする。二人はそれぞれ手に小さ目のバッグを持っている。会議室の先にある給湯室で食事を取ろうとしているのだろう。

「課長、お昼ご飯一緒にどうですか?」

 いきなりそんな言葉をかけたのは梅沢だ。晴海はにこやかな顔をして梅沢の横に立っているだけ。

「いや、二人で食事してくると良い。私はまだ忙しいんだ」
「ええっ、もうお昼休憩入りましたよ」
「君達は弁当だろう? 私は終わり次第社食で食べるから」
「じゃあ、私達だけで食事してきます、課長お疲れさまです」

 終始無言でいる晴海。幸司を食事に誘うのは梅沢任せだ。ここは、人の目のある社内。それも、給湯室へと続く会議室の前だ。そんな場所ではあまり目立った行動を取らない晴海は梅沢に幸司を誘わせ自分は素知らぬ顔をしている。

 しかし、例え恋人同士だったとしても幸司は晴海と二人だけで社内で食事をすることはない。それを知っていて敢えて社内で仲の良い梅沢に幸司を誘わせた。



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