好きにならなければ良かったのに

「あーあ、課長行っちゃったわね」
「いいのよ、別に」
「本当は誰にも遠慮せずに課長と一緒にご飯食べたいでしょう?」

 社内では梅沢と晴海は仲の良い友達の様だが、そこは少し無神経な質問が飛んでくる。晴海はそれには答えずに給湯室へと向かう。

「課長に奥さんいるって本当なの?」

 背後から聞こえる梅沢のセリフ。晴海にとっては自分が「愛人」と言われている様で気に入らない言葉だ。

「噂じゃ奥さんいるって。そしたら日下さんはどうなるの? もしかして、本当は課長の奥さんだったりして?」

 本当に友達とは思えない無神経な会話だと晴海は無言になる。社内で噂になっているのは晴海も承知している。幸司は妻帯者で自分は恋人ではなく「愛人」という立場にあると。「妻帯者」という噂が事実なら結婚していない自分が必然的に「愛人」となるのは当然のことだと、分かっていても流石にそんな会話になると胸が痛む。

「もうその話はやめましょう。それに噂は噂よ。事実なんて誰も知らないのだから」

 少し強い口調で言うと晴海は給湯室へ向かう足を速めた。弁当の入ったバッグを持つ手に力が入ると少し手に汗を掻いている。給湯室へ入って行くと、そこには誰の姿もなく自分一人だけ。梅沢は後ろから着いて来るがまだここにはいない。

 晴海はテーブルの上にバッグを置き、シンクの蛇口を捻り勢いよく出て来た水で手についた汗を洗い流した。


 一方、幸司は名札を手に持つと一度営業部一課の自分のデスクへと戻る。既に昼休みに入ったこの部署には人影は少ない。数人の社員が残り作業をしていたり、遅れて今から食事へ行こうと準備している者の姿があるくらいだ。

 幸司はデスクへ座ったものの名札を見ているだけで机上に残した仕事が手につかない。自分の手元に旧姓で書かれた美幸の名札が残っていることが妙に落ち着かない。

 仕事は午後からにし今はゆっくり食事をしようと思い、デスクの引き出しから財布を取り出す。財布を手にすると、昨日、晴海に言われたことを思いだし財布を開いた。

 財布に透明フィルムで覆われた定期券を入れるところがある。そこには、幸せそうに微笑む美幸のウェディングドレス姿の写真が挟まっていた。
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