幸福に触れたがる手(短編集)
「うまいよ。知明は良い嫁さんになるな」
「へぇっ?」
嫁、という単語に過剰反応して固まったけれど、篠田さんは素知らぬ顔で食べ続けている。
長年付き合った恋人に振られた直後のアラサー女子がそんな反応。なんだか結婚を焦っているようで恥ずかしくなった。
ごほんと咳払いをしてお酒を飲むと、篠田さんは肩を揺らして笑って「照れんなよ」とわたしの頬を撫でた。
「て、照れてません……!」
「顔真っ赤」
「お酒のせいです!」
「全然飲んでねえだろ」
「お酒弱いんです!」
「へえ。それでこの間吐きそうになってたわけか」
「そ、そうです……」
「へえ」
「……」
「可愛いやつめ」
「……」
結局ばれるなら、隠さずに「照れてます」と言えば良かっただろうか……。
こういうところが元恋人曰くの「可愛くない」要因のひとつなのだろうけど。
もう一口お酒を飲みこんでしばし考えたあと、「篠田さん」と彼の名前を呼んだ。
「うん?」
「なんというか……あの、はい……ありがとうございます」
「うん」
「わたし、お酒、わりと強いです……」
「だろうな」
篠田さんはわたしの頬を撫でたまま、空いた右手で頬杖をつき、まるでキスでも強請るようにくいと顎を上げる。
そんな仕草、ずるい。
嫁云々の話をした後にキスを強請るのもずるい。
わたしたちは、恋人同士なんかじゃないのに……。
それでもわたしは、頬にあった篠田さんの手を握って、中腰になり、彼のその唇に自分の唇を押しつけた。
舌を絡めたら「酒の味がする」と唇を合わせたまま喋るから、くすぐったい。
口内や唇に残ったお酒を舐め取るように舌を絡め、ちゅ、ちゅとリップ音を立て、味わうように貪る。
「……寝室行くか?」
篠田さんが、優しい声で言った。
わたしは顎を引き、少し考え「行きません」と答える。
「おまえから誘ったのに?」
「ごはんの途中なので」
「おまえからキスしてきたのに?」
「いえ、誘ったのは篠田さんです。断言できます」
言うと篠田さんはふっと笑って身体を引いた。
「自分の意見、言えるじゃねえか」
「あ……」
本当だ。ちゃんと言えた。
わたしもふっと笑って頷く。
こんな風に少しずつ、変わっていけたらいいなと思った。