幸福に触れたがる手(短編集)
「知明、掃除終わったからいつでも風呂入れるぞ」
「ありがとうございます。わたしもあとは焼くだけです」
一月三日。お正月休み最終日。
篠田さんがお風呂とトイレの掃除をしてくれている間に、わたしは昼食の支度をした。
今日の昼は篠田さんのリクエストのハンバーグ。昼もまだなのに、もう夕食のリクエストも受けている。夜はグラタン。すでにお正月らしいメニューは飽きてしまったらしい。
半同棲のような生活も四日目となると随分慣れ、篠田さんがごく自然にわたしの部屋に戻って来ても、もはや何も気にならない。むしろ「おかえりなさい」を言うようになった。
今まで付き合った人たちとは、どちらかの部屋に一泊するくらいだったし、同棲なんて寝ても覚めてもずっと一緒で肩が凝りそう、と思っていた。だからわたしは他人と暮らすのが向いていないのだろうと。
でも実際こういう状況になったら意外と平気だった。
今はお正月休みで、多分篠田さんもお正月休みで、四六時中一緒にいるけれど、まったく飽きる気がしない。毎日たくさん話して、たくさん笑って、たくさん食べて。
篠田さん曰く「気ぃ遣い過ぎ」らしいけれど、何にも苦ではないし、わたしとしてはごくごく自然に過ごせている気がする。
のは、やっぱり、お互い嘔吐寸前という恰好悪い出会い方をしたせいだろうか。
それとも、篠田さんが醸し出す雰囲気が、すごく楽だからだろうか。
昼食の後片付けをした後着替えていると、篠田さんが「どっか行くの?」と寝室を覗いた。
「すぐそこのコンビニ行ってきます。何か要りますか?」
「コンビニ? なんで?」
「飲み物と、コンドームがもうないんですよ。篠田さんが使いまくるから」
「俺が勝手に使ってるわけじゃねえだろ」
「そうですけど、減りが早すぎますよね」
「知明ちゃんがもっともっとって強請るからあ」
「亮太さんがすぐ盛っちゃうからあ」
ちゃん付けにならって初めて名前を呼んだら、思いの外しっくりこなくて可笑しかった。
篠田さんも初めての名前呼びにきょとんとして「俺の名前憶えてたんだ」と。きょとんの理由はそっちか。
「そりゃあ憶えてますよ。篠田さんこそ、わたしの名字憶えてますか?」
「ああ。一宮だろ」
「憶えてたんですね」
「テーブルの上に年賀状あったから」
「カンニングじゃないですか」
篠田さんはふっと笑って、わたしの背中をぽんとたたき、数日前からずっと置きっぱなしになっていたジャケットを羽織る。
「外の空気吸いたいから、俺もコンビニ行くわ」
そう言って右手を差し出す。……これは、握れ、という解釈でいいのだろうか。
しばらくそのごつごつとした男らしい手を見つめたあとでそっと握ると「間が恐ぇ」とまた笑われた。
「すみません、どういう意味か考えていました」
「握る以外に何かあんの?」
「金銭の要求や握手かもしれないじゃないですか」
「状況を考えて判断しろよ」
悪態を吐きながらも、握った篠田さんの手は、優しくて温かかった。