ビルに願いを。
意外なことに、先に息が上がったのは私の方だった。なぜ? ビル内引きこもりに負けるなんておかしい。毎日の行き帰り、結構歩いてるのに。
「あのビルにフィットネスジムもあるんだよ。知らない?」
そんなのもあるんだ。気にしたことなかった。
「コンビニとかレストラン、ジムがあって、ミドルフロアの上にアッパーフロア、その上がホテル?」
「その上にもレストランがあって、あとラウンジ。会員制のクラブみたいなところ。誠也とたまに行ってるから、今度連れてってやるよ」
「そういうの緊張しそうだから遠慮しておきます」
住む世界が違うなあって時々思わされる。兄弟で空の上の会員制高級ラウンジに行くんだって。
「このタワーが結構きれいに見えるよ?」
私が丈をだんだんわかって来たように、向こうも私を理解しつつあると気づく。背の高い建物を見るのが好きなの。
でもダメだ、もう息が切れて話すのもつらい。
「ほら」
上の段から差し伸べられた手をありがたく取る。
手をつないじゃった!とかドキドキする元気もない。心臓はもう疲れてドキドキし続けている。
丈は少しスピードを緩めてくれた。そもそも登るの速すぎるんだよ! 景色を見ながらゆっくりなんて感じじゃなかった。
「上に着くまで振り返らないでね」
わからないだろうと思いつつ、なんとなく言ってみた。
「なんだっけ、イザナギとイザナミ?」
「日本神話知ってるの?」
「日本人だよ、一応」
「でも間違い。手をつないで地上まで振り返らないでって言うのはギリシャ神話」
言いながらまた息が切れてくる。
どちらも、死んで黄泉の国に行った奥さんを取り戻しにいく話。
黄泉の国から手をつないで地上に戻るまでに振り返り、奥さんを取り返せなかったのはギリシャ神話。
地下で待っている間に扉を開けて彼女の穢れた姿を見てしまい、男のほうが逃げ出すのが日本神話。
見なければよかったのに。ダメなのだ、人というのは。もしくは一度堕ちた女は結局明るい場所に戻ることはできない。そういうこと。