待ち人来たらずは恋のきざし

ムクッと顔を起こした先に屈み込んだ課長の顔があった。

「景衣…今ならまだ間に合うのか?」

え?…何?…え、今、確かに景衣って…言った。間に合うかって何の事?
それよりズキッて…、反応してはいけないところが反応していた。

「まだセーフなのか?」

あ、いけない。え…セーフ?って…。
仕事でのダメージって事?…なら大丈夫。
ダメージなんて…少しの間落ち込むだけ。討たれ慣れてる。
嫌な電話を何件受けようとも、仕方ないもの…今更よ。

「はい。大丈夫ですよ」

「…そうか。
なら、待ってる。…今夜、来てくれないか」

ん、…ん?課長…唇が…触れた?

「俺の部屋、変わってないから。
じゃあな、…ご馳走様」

…。な、に…今の…。
…課長。誤解してる。違うのに。


「課長!」

聞こえて無いはずは無い。
通路の先で課長は特に振り返る事もしなかった。


課長が景衣と呼んだ事…。
気を取られていた。

不覚にも名前を呼ばれた事に反応してしまった。
長い歳月なんて…一瞬だ、脳が一気にあの時に引き戻されてしまった。
景衣…景衣、…。
課長が何度も私の名前を呼んで…。もう二度と無い。
沢山愛された…あの日の事。

セーフかって聞いたのは、不安定な私が今ならまだいいのかって事だ…。
私…大丈夫だって言ってしまった。
だから部屋にって…。
あ…、課長の部屋が浮かんでしまう…。
…大きなベッド。

課長…さっき唇が触れたのは幻なんかじゃない。
確かに私の唇に、軽くだけど触れた。

課長はもうフロアに帰ってしまった。
はっきり違うと、誤解は解きたい。
直接はそんな事で声は掛けられない。
個人的な連絡先は知らない。
帰り際に何とかなるだろうか。



それからがまた、悪夢だった。
遅くなってごめんねと席に戻り、決められた時間、契約書を手に確認の電話を架けた。

もう終業間近の電話。
本日、三度目の嫌な電話相手に当たってしまった。
見なかった星座占いが当たっていたとするなら、きっと今日は最下位に近くて、仕事運は悪いハプニングに見舞われる、だっただろう。


「お疲れ様でした」

最終確認を済ませる頃には片付けも早々にみんな早く帰りたがる。
しまった者から次々と帰って行く。
私もそうだ。早くしまって帰りたい。
一刻も早く帰りたい。

もう…足も身体も、…心も重かった。
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