待ち人来たらずは恋のきざし

もう…嫌だ。
視野に人が居なくなっていたから、パソコンを閉じながら両手で顔を押さえた。


「…浅黄、大丈夫か?疲れたな」

…あ、課長。

「疲れました、大丈夫じゃありません。
あ…課長、誤解です。私、休憩室で、誤解して返事を…」

あ、言ってしまってからキョロキョロした。
ホッ。誰も居なかった。良かった。

いけない、なに慌てて…誰か居たら変な話を聞かれてしまうところだった。
会社でしてはいけない話だ。

「誤解したんです。私、行きませんよ?
セーフかって聞かれたのは、仕事だと思ったから、大丈夫だって言ったんです」

電話の事で頭が一杯の時に、動揺もしたし、課長の言葉は理解出来てなかったから。
はぁ、…取り敢えず、これで誤解は解けた。

「それに…課長が急に景衣なんて呼ぶから…いけないんです。普段は呼ばない約束でしたよね。
それから、さっきの…唇が触れた事は無かった事にしておきます。無しです。
それでは、お疲れ様でした」

「思い出したのか?」

え?腕を取られた。

「身体は覚えていたのか?」

は…何を言っているの。貴方は大人の男ですよね?
一度きりの事…、だけど無かった事にはしないで欲しいと言われた、二度ともう無い事なんです。
そういう事で、した事でしょ?
…何を言ってるんですか。
誰も知らない事じゃないですか。
だからずっと秘密なんでしょ?

「何を考えている?
…こんな事は、あってはならない事だと思っているのか?」

…当たり前よ。今、私にはあいつが居るって知ってますよね?…よく解らないとか、言ってはいますけど。

「おかしな事、言わないでくださいと思っています」

「あの時とは状況は変わったよ…。
俺は離婚してフリーだ。浅黄だって独身だろ」

だから私、散々、貴方にあの男の事で惚気てますよね?
…聞かせてわざと妬かせている訳ではないですからね。

「確かに、浅黄は今、恋しているようだが。それはそれ。
独身である事に変わりは無い。
恋人だと、完全に決まった相手なのか?
ただ好きで、行為を持った。まだそれだけなんだろ?
浅黄は恋はしてるけど、その事、よく解らないって言ってたじゃないか。
向こうに好かれて押されてるうちに、自分も好きかもって思い込んだんじゃないのか」

それは…。

「だったら、俺も気持ちを伝える事は構わないよな?
あの頃は諦めるしかなかった。だけど、好きだから好きだと言った。
好きで…後悔の無い関係を持った。
浅黄だって…あの日だけは好きだと言ったんだ。お互い好きでした事だ。
今は、少なくとも、諦めなきゃいけないモノが俺には無くなった。
俺は、浅黄が忘れられない。…ずっとだ。
去年まではこんな事、有り得ないと思っていた。まだ離婚していなかったからな。
だけど今年になって離婚が成立した。
だから俺はやっと言えるんだ。だから、言ってもいいよな」

…何…この言葉…。準えているみたいだと一度頭を過ぎったら、そうとしか思えなくなって来る…。

『来ず。さわりあり』『おとづれなくくる』

おみくじの言葉は…課長の事だったの?
長く私に待ち人が現れなかったのは、相手が課長だったから?

課長が結婚した事で“さわり”があったから?
それが今年無くなったから、突然やってくる、なの?…。

…駄目、…課長の言葉にも存在にも、囚われては駄目よ。
おみくじはおみくじ。準えては駄目。
…あんなに信じていたのに?いざとなったら信じないの?おみくじの事。
ううん。自分でちゃんと考えるのよ。
おみくじはおみくじ…。

じゃあ…あの男は?
…なろうとして待ち人になってくれた男…、私が待ち人の話をしたから…なろうとした?
それは元々待ち人ではない男って事…なの?…。
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