待ち人来たらずは恋のきざし


「とにかく、遅くなりますので帰ります。
離して貰えますか」

「送ろう」

「いいえ。遅いのは今日に限った事ではありません。
午後から出勤する日はいつもこうなんですから。

…送ろう、なんて言うなら、今日に限らず…もっとずっと前からも送っててください、課長として。

お疲れ様です。
おやすみなさい、課長」

「待て。そんな事は、課長としてだって言えなかった。
言ったところで浅黄は承諾しなかったはずだ。
そうだろ?…何を言ってる」

…この場の打開策に決まってるでしょ。帰る為よ、…取り敢えずよ。
詰めた話なんて今出来ないでしょ?

「…大人の都合の結婚なんかしないで、好きだと言うのなら、あの時、私と結婚していたら良かったんじゃないですか?
今更言うのは、…昔振られた男と同じ事のように思えます。
課長はあの時言いました。その男はやっぱりお前が良かったと言ってくるだろうって。
でも相手にはするなって」

デスクの引き出しから、持ち込み用のバッグを取り出した。
フロアを後にした。

「浅黄!」

更衣室に走った。

ロッカーからガタガタとコートを取り出した。ハンガーが落ちた。

腕を通しながら急いで更衣室を出た。

忘れずに明日制服を持って来なきゃ…。

私服は置いて帰った。



跡をつけられていないか気になった。

早足で歩きながら、何度も振り返った。

あ…はぁ、そっか…早く気がつけば良かった。
何も慌てなくったって、…今更だ。

私の住所なんて、課長なら知ろうと思えば簡単な事だ。

…はぁ、…もう普通に歩こう。
走ったって無意味、無駄な事だった。


割り切っていたとは言え、あんな事があった者同士が同じ職場に居たのは、やはり可笑しいんだ…。
解ってはいた事だけど。


普通にしてきたつもりだった。
あの時、少なくとも、私には、一度きりで関係を終わらせてしまうなんて、という、課長に対する未練みたいなモノは無かった。

課長が長く心を燻らせていたとは…思わなかった。
とうに終わった事だし、二度と無い事。

こんな事があると、会社、辞めた方がいいに決まってるけど…。

少なくとも、あの男とこのままの関係を進展させていくなら、その方がいいに決まってる。
余計な思いはして欲しく無い。
だけど、辞めて次の仕事に上手く着けるかは解らない…。



「よう景衣、お疲れ、お帰り」

あぁ、居てくれた。

「…ただいま。ごめんなさい、言った時間より遅くなってしまって」

「仕事に予定通りなんて無いよ。
大丈夫だ、何の問題も無い」

あ、…、私はドンドン弱くなっている気がした。

男の脇に手を入れ抱きしめた。

「…どうした?…もうしたくなったのか?」

…、フ。そんなんじゃない。違うに決まってる…。

「もう…馬鹿…違う」

ちょっとだけ、こうしたくなったからよ。

「珍しく急に抱き着くからだろ?
中入るまで待てないのかって思うだろ?」

「…もう…違います…そんなんじゃないです。そんな節操の無い事はしません。
こんなとこでしない…」

「まあな、…電話で嫌な目にでも遭ったか…」

男が腕を回し直してギュッとした。
頭を胸に押し付けられた。

「…うん。…三件も受けちゃった」

完全に甘えてしまった。

「そっか、…お疲れだったな。
とにかく、中に入ろう」

頭に手を置かれた。
ポン、…ポンとされた。

「…はい」


「ご飯、作らなくていいぞ?何か買って来ようか。何がいい?
あ、景衣の行ってる弁当屋さんはもう閉まってるのか?
近所なんだろ?どこら辺?」

本当…優しい。

「野菜、中に入れて?
大丈夫。一人ならしないけど、貴方が居てくれたから作る」

「無理しなくていいんだぞ?」

「無理じゃない。したいの」

…。

「あ、したいって、ご飯を作りたいって事よ」

「フ。解ってる。それはそれ、…これはこれだ。

あ、れ?景衣、制服なのか、これ」


男が私のコートの前を開けてそう言った。

「あ、うん。急いだから。
着替えずに帰って来たんです」

「そうか…景衣…」

あ、…。

まるでこうなるように誘導した言葉になってしまった。

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