待ち人来たらずは恋のきざし


いつもと変わらず、浴槽の中で後ろから腕を回されていた。

「…私、かなり前につき合っていた人が居たって…話をしましたよね」

「…うん」

「それで、その人に振られて」

「うん」

「その日は、振られた事と、嫌な…男性の電話を受けてしまったんです」

「重なったんだ」

「はい、それで…上司にご飯に誘われました」

「…ん」

…。話があるのと言って話し始めたんだ。

上司にご飯に誘われた…その先、当然、もう想像はされている気がする。

「ご飯を食べて、お酒は一滴も飲んで無くて、二人共」

…。

「好きだって…それでお店でキスをされました」

「…へぇ」

「…お店を出て、上司の部屋に行きました。
私が会社に入った時から、ずっと好きだったと言われました」

…。

「…私は上司の背中が好きでした。だから…」

「だから…そんな日だったから、好きだと言われて、シた」

「…はい」

…ふぅ、と背中で息を吐くのが解った。

「…上司は年内には結婚する事が決まっていました。大人の都合の結婚をするって」

「…だから、景衣としたかったんだな」

…。

「景衣は振られた。
上司は好きだと言って…景衣は特に嫌って感じもしない。

何より意にそぐわない結婚をするんだ。それは辞められないものだったんだろ?
その前に自分の気持ちが景衣にある事を言っておきたかった。
…景衣はフリーになった事が解った。今しか無い、そう思ったら気持ちは抑え切れなかった訳だ。

俺…その上司の気持ちは解る」

あ、…。ギュッとされた。

「だけど、…あぁ、どうかな…。関係を持ってしまったら…忘れられなくなるだろうな。
そうだよ…忘れられない、景衣の事を忘れるなんて出来っこないさ」

またギュッと抱きしめられた。

「…その日、一度だけの事でした。
無かった事にしておきますって言ったら、無かった事にはしないで欲しいと言われました」

「…ただシたかったとも違う、後腐れが云々と言う相手では無い、本当に好きだったんだな、その上司。
だから有った事にしておきたかったと、敢えて口にした」

だから、忘れたくないし、した事を含め、景衣の中から自分自身を忘れ去られたく無かった…。


課長は純粋に好きだと言っていたから。

「それで…今日」

「…今日?…何かあったのか?」

「何かと言うか、その上司に、まだ大丈夫なのかと言われました。
その上司、今年になって離婚したんです。
私には貴方が居るって事は知ってるんですけど」

「自分にもまだチャンスはあるのかって事か…」

そんな感じだ。

「…はい。それで、私、嫌な電話の事を心配して言ってくれたんだと一瞬勘違いして、私、大丈夫だと答えてしまったんです。
だけど、それは誤解だと言って、帰って来ました」

「ん?結局は断ったという事か」

「はい」

「でも、会社に行けば居るんだよな…。

景衣は、その上司の事、好きじゃないのか?…」

「私は…ただ一度だけの事だと思っていたし、ずっと上司だと思ってる。
だからこそ、今まで仕事も続けてこれたと思っている…」

「…そうか。
じゃあ別に問題無いんじゃないのか?」

「え」

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