いつも、雨
「……確かに壊す必要もないが……残す意味はあるかい?家は人が住まないと荒れるのが早いというが。……荒井さんに、住んでもらう?」


もともと、荒井の兄の別荘だったので、何の気なしに要人はそう言った。


佐那子はふふっと笑った。

「キープしとくの。要人さんと喧嘩した時のために。私の逃げ場。……そのうち、義人の家出先になるかもしれないし。」


冗談のつもりだったのかもしれない。

いずれにしても、深い意味はなかっただろう。


しかし義人は……真顔で言った。

「逃げ出すのは、俺でいい。この家も、あの家も、全て君のものだから。……お義母さんにも引っ越して来てもらえないかな。」


佐那子は、空気が変わったのを肌で感じた。

幸せなはずなのに……もやもやが生じた。


……逃げ出したいの?

そう聞きたいけれど、絶対に聞いてはいけない気がした。


佐那子は、すっくと立ち上がってキッチンへ向かいながら言った。

「たぶん来ないと思うけど、伝える。お母さま、喜ぶわ。ありがとう。」


そうして、そのまま戻って来なかった。



タイミングを外された。

いい機会だと思ったのだが……。

やはり、話のついで、ではなく……はっきりと要件から切り出さなくてはいけないだろうな。


……気が重いが……。


要人は、ため息をついて、紅茶に口を付けた。

優しい甘さに、癒やされてしまうことに、抵抗を覚えた。



俺はこんなにも狡いのに……。

……いや。

居心地の良さにいつまでも甘えているわけにもいくまい。

けじめを付けなくては。




「佐那子。話がある。」

要人は意を決して、立ち上がった。


てっきりキッチンにいると思ったのに、妻の姿はなかった。


……いったい、どこへ……。


この家は、外からの攻撃に備えてのセキュリティは万全だが、……逃げるための出口はいくらでもあった。

外へ出た様子はない。

二階の子供達のところだろうか。


……さすがに……いきなり子供の前でする話ではないな……。

今夜は諦めるか。



要人は立ち上がったついでに、サイドボードからカミュを出した。

紅茶に垂らすと、甘い香りが魅惑的に変化した。


目を閉じると、瞼の裏に領子の少し顎を上げて取り澄ました横顔が浮かんだ。


逢いたい……。


いつだって、そうだ。


どんな時も、領子さまを思い出すと、要人の心も身体も、年甲斐もなく震えた。
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