いつも、雨
「……君のそういうところが、実に心地よく、大好きだよ。……ありがとう。でも、違う。会社は順調すぎるほど順調だよ。……あちこちに、多大な恨みを買ってしまうほどにね。……天花寺の、恭風さまも、恭匡さまも、そりゃあ大切だけどね……、自分自身の命より大切なのは、生涯お一人だけだ。……橘家に嫁がれた、領子さまだよ。」

さすがに、最後は声が震えた。


……領子さまのことを、こんな風に誰かに話すことは、初めてかもしれないな。



要人の緊張を感じて、佐那子はようやく言葉の意味を解し始めた。

「領子さま……橘、領子さま……。じゃあ、百合子ちゃんは……」


佐那子は、名前を先に使われた一件以来、百合子のことが気になって仕方なかったようだ。


要人は、佐那子の目を見つめたまま、しっかりと頷いた。

「私の子だ。」



佐那子は大きく目を見開いた。

みるみるうちに涙が目いっぱいに溜まった。


さすがに見るに耐えず、要人は思わず佐那子を抱きしめた。


嗚咽は聞こえなかった。



佐那子は、振りほどきも、しがみつきもせず……ただ、ぼんやりと嵐山をピンクに染める桜の花々が涙に滲むのを見ていた。

怒りも、悲しみも、今はなかった。

ぽっかりと、心が真っ白になってしまった。


何にもない……。

なぁんにも……ない……。



漕ぐのをやめたボートは、ゆっくり下流へと流れて、せき止めるための杭でようやく留まった。



要人は、佐那子を腕から解き放ち、再びオールを握った。

岸辺へ向かい、船を降りても、佐那子は人形のようにぼんやりしていた。

支えるように肩を抱き、家路を辿る。


竹藪の小径で、やっと佐那子が口を開いた。

「……いつから……。いいえ、子供の頃からと、さっき、おっしゃったわ。……ええと……橘領子さま、離婚なさるの?……あなたと、再婚するために?」



やはり賢い女だな。

要人は、痛いところをつかれて、苦笑した。

「いや。今のところ、そんな予定はない。……ただ、百合子さまのことを、既に橘家のご当主はご存知でね。……相手が私だとは知らないそうだが。寛大なご当主はそれでも、領子さまと百合子さまを家族として大事にしてくださっているが……奥さまか領子さまの旦那さまに知られたら、追い出されてしまわれるだろう。その時、私にお助けできることがあったとしても、プライドの高いあのかたは、私を頼らないと思う。」

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