いつも、雨
「千歳さんのことは、わたくしにはよくわかりません。」

領子は蚊の鳴くような声でそう呟いた。


要人は何も答えず……振り返って、領子を見ようともしなかった。


小さなため息が聞こえた。


しばらくして、領子はすっくと立ち上がった。

「おやすみなさい。おにいちゃん。」

「竹原、と呼ぶように、奥さまがおっしゃってませんでしたか?……領子さま。」

冷たい声。

冷たい言葉。


領子は、要人の拒絶が……いや、拒絶しなければいけない要人の立場が、ただただ悲しかった。

「……ごめんなさい。……気をつけます。」

それだけ言って、領子はパタパタと廊下を駆け出した。



まるで亀の甲羅のように背中を覆っていたプレッシャーから解放されて、要人はどっと脱力した。


……やってられへんわ……。

別に、領子に意地悪しているつもりはない。


噂の婚約者殿をこの2日間、観察してみたが……千歳に、特別な欠点を見出すことはなかった。

領子への不器用すぎる対応も、女に不慣れという程度のことだろう。

いずれ、領子はあのぼんぼんに嫁ぐ……。

あの取り澄ました夫人を姑(はは)と呼び、あの温厚そうな紳士を舅(ちち)と呼ぶのか……。


経済的に破綻した、滅び行く前世紀の遺物のような貴族らしい貴族の天花寺家とは全然違う匂いがした。

橘家……か。

なるほど。

領子が嫁ぐにはふさわしい家じゃないか。


頭ではそう思うのだが……要人は自分の中にどす黒いもやもやが生じていることに気づいていた。


……嫉妬……いや、違うな。

不思議なもので、婚約者だという千歳に対しては嫉妬らしきものは全く感じない。

しかし、橘家そのものに対しては、忸怩としたモノを感じていた。

自分がどう努力しても手に入れられないモノ。

金はいくらでも稼げる。

知性も磨くことができる。

しかし、歴史は如何ともしがたい。


……コンプレックス……というわけか……。

幼少期に恭風に対して感じたこともあった、懐かしさすら感じるマイナス感情。

結局、身分差は、いつまでも厳然とあり続けるのだろう。

どれほど、領子が要人を慕ってくれても……要人が領子を愛しく感じていても……。


要人は、かぶりを振って、沓脱石から立ち上がった。


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