いつも、雨
「私の目の前で、飛び立ち、そのまま逃がしてしまいました。年甲斐もなく、ボートで川を渡り、対岸の林を上って捕らえようとしたのですが、足下の土が崩れ落ちて……結局、どうにもなりませんでした。」

「ああ、それで。その手……どうされたのかと思っていましたわ。他に、お怪我なさらなくって?大丈夫?」


領子は、思わず両手を差し出し、要人の手をそっと取った。

いくつもの切り傷が、透明テープの下にかすかに見えている。


要人は小さく頷き、それから言葉を継いだ。

「今朝、少し背中が痛みましたが、まあ、大丈夫です。……身体より、心が……とても、象徴的に思えて、怖くなりました。領子さまも、私に愛想を尽かしてしまわれて……もう、お逢いしていただけないのでは、と……。」


領子は一瞬大きく目を見開き、それからふぅっと息を吐き、やわらかく微笑んだ。


いつの間にかこわばりはほどけて、いつもの領子になっていた。


「……お馬鹿さんね。わたくしがどうあっても、竹原はさらいに来るじゃないの。どこへも逃れても、逃れきれませんから。わたくしは、待っています。」

「領子さま……。」


言葉にならない感動と安堵に、要人は領子をかき抱いた。

珍しく、すぐに領子の両手が要人の背中をしっかりとらえた。


それ以上の言葉は必要なかった。


半世紀以上に及ぶ2人の歴史は、互いの配偶者に対する嫉妬も感謝も包括している。

その時その時の状況で、こじれることがあったとしても、それは一時的なこと。


物理的にどれだけ離れていても、他の誰と共にいようと、2人がかけがえのない相手だということは変わらない。


幾多の障害を経て、領子は強くなった。





「愛しています。竹原。信じています。だから、わたくしは大丈夫よ。……佐那子さまが手術を終えて、ひととおりの抗癌剤治療をされて落ち着かれるまで……ずっとそばにいて、支えてさし上げて。……とてもお辛いと思うから……。」


愛を交わしあうひとときを過ごして落ち着いたのか、領子はいじらしいことを言った。


「ひととおりって……個人差はあるとして、一夫くんのときもだいぶかかりましたが。さすがに、それは、領子さまが大丈夫と仰っても、絶対大丈夫じゃありませんよ。……俺も、無理や……。」



最後に熱っぽくつぶやいた要人に、領子の胸は撃ち抜かれた。


……わたくし……竹原に、いったい、何度ときめいて、また、もっと、好きになってしまうのかしら……。
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