小倉ひとつ。
だから。


また立ち寄ってほしいなあ、とちょっぴり期待を込めて見ると、瀧川さんは軽く頭を下げた。


「失礼しました」

「いいえ」

「ご心配ありがとうございます」

「いいえ。こちらこそ出過ぎたことを申しました。すみません」

「いえ、少し、気をつけてみます」


一拍置いて微笑む瀧川さんに、そういえば、とふと思う。


そういえば、瀧川さんの微笑み以外の表情って、ものすごく珍しいよね。


先ほどの弱り顔も珍しいけれど、はっきりした笑顔が一番珍しい。


破顔しているところを見たのは、ほんの数回、指折り数えたら両手で足りるくらいしかない。


「……立花さん」


思考が定まらない私を、瀧川さんが静かに呼ぶ。


「っ、はい」


びっくり、した。


呼ばれるはずのない名前。

呼ばれるはずはないと思っていた、私の名前。


たちばな。


稲やでは従業員は全員、裏方でも売り子でも、自分で名字を書いた名札を左胸に留める決まりだ。


いつも規則通り見やすい位置に従業員用の名札をつけているけれど、瀧川さんはあまり誰かの名前を呼ばない。


そもそも、私の名字を覚えているとは思っていなかった。

多分今、私の名札を確認していなかった。


……こういう、ところだ。こういうところが。


なんだろう、と見つめると、瀧川さんが少し笑って言った。


「今後もお世話になります」


貴重な笑顔と名前呼びは、歩み寄りの証だろう。


ああよかった、と私もつられて破顔した。


「ありがとうございます、これからもご贔屓にしていただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします」

「はい、必ず。こちらこそよろしくお願いいたします」


瀧川さんが強く明言するのは珍しい。


……本当に、よかった。
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