小倉ひとつ。
「私はお店に伺うときは外しているんです。仕事の都合上、時間を確認したいときにすぐに確認できないのは困るので、稲やさん以外では着けています」

「えっ、そうだったんですか」


思いも寄らない言葉にびっくりして、思わずお手元をまじまじ見てしまった。


確かに今は、瀧川さんの手首に黒い時計がある。


お茶の先生をやってらっしゃる方でない限り、よほどお茶をお好きでないと腕時計を外す方は少ない。てっきり腕時計を使わない方なのかと思っていた。


私の金属アレルギーの友人は腕時計を着けないので、そのイメージに引きずられていたのもある。


……でも、そっか。


そうなんだ。瀧川さん、いつも来る前に、腕時計を外してくれてたのか。


朝の忙しい時間、少しでも時計を確認して、絶対に遅刻しないように出勤したいはずなのに。


稲やさんではほとんど壁にかけてある時計を見ない。私に急いでほしいと言ったことは、数えるほどもない。


誰に言われたわけでもないだろう。腕時計をしたままでも、瀧川さんが茶器を傷つけるところは想像できない。


でも、それでも外してくれたのだ。いつも。朝、予約をするだけのときさえ。


稲やさんを——お茶を大事にする姿勢に、じわりと感慨が浮かぶ。


「ありがとうございます」

「いいえ」


にじんだお礼に瀧川さんがびっくりしたように瞠目して、それから、そっと笑った。


優しい微笑みだった。
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