祓魔師陛下と銀髪紫眼の娘―甘く飼い慣らされる日々の先に―
 自分が目の前に相手にしているのは、生きている者ではないのだ。その恐怖が足を竦ませ、体の動きを鈍くさせる。

 体が覚えたステップでなんとか足を後ろに引き、ゆっくりと踊り始めるも、彼についていくのが精一杯で、お世辞にも踊っているとは言いがたい。音楽が耳に入ってこない。

 おかげで足がもつれそうになり、リラはついに転びそうになった。それを支えたのは意外にも、冷たい腕だ。

 支えられたまま、恐る恐る顔を上げてみる。その顔は、やはになにを考えているのか読めずに感情が伝わってこない。彼の唇がゆっくりと動いた。

『慣れていなくて、申し訳ない』

 その言葉にリラは固まった。そしてこの前の記憶を少しずつ思い出す。彼は元々笑顔が苦手で不愛想な男だった。

 ぶっきらぼうで、不器用で。ダンスのリードもお世辞にも上手いとは言えない。それでも、彼女との約束を果たすために必死だった。真剣だったのだ。

 リラは気持ちを入れ替えて、改めて彼の手を取る。今まで自分が見てきた生者ではないものは、恐ろしいものもたくさんあった。たくさんの恐怖を味わってきた。でも、元はみんな生きていたのだ。

 フィーネと話していたときに現れた彼女の祖父は、とても心配そうに、穏やかな表情でリラに自分が残した本の場所を教えてくれた。いつも自分の目に映るのは、なにかを必死に訴えかけてくる者たち。彼もそうだ。

 少しずつ、冷たさが気にならなくなってくる。竦んでいた足が、次第に音楽に乗って動き始める。青白く表情が読めない目の前の男の顔も、歩く死者だからではなく彼の素のものなんだと思い始めることができた。

 そのまま曲は緩やかに終演に向かう。どこまでも続く長い時間に思えたが、終わりはやってくる。そして、踊り終えた後、男はリラから離れ一歩下がると、深々と頭を下げた。
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