冷淡なる薔薇の王子と甘美な誘惑
 ――ダンスなんて、したことはないけれど……

 見よう見まねで、軽くステップを踏んでみる。

 1、2、3……1、2、3……
 たしかこんな風につま先を先に置いて……

 前についた右足を軸にして、真後ろへと振り返ると、足元でエプロンを付けたスカートがひらりと優雅に靡いた。
 あの空色の艶やかなドレスを重ねて、頬が上気する。
 
 ――もし私が、上流の家庭に生まれていたら、ディオン様と踊ることができたのかしら……

 夢を見るだけなら、誰にも迷惑はかけない。
 身分も世の理も、夢の中なら関係ないから。
 ステップを止めて月を見上げる。
 まん丸の輝きだけが、フィリーナの心を見透かしているよう。
 膨らむ気持ちが苦しくて、胸に手を当てた。

 ――ディオン様……

 思い浮かべる麗しい顔に、鼓動は高鳴る。
 
 ――いつの間に、私の心はこんなにもあの方でいっぱいになっていたのだろう。
 私を守ると言ってくださった言葉も、目の前に立ちはだかってくださった背中も……
 決して私のものにはならないのに……

 見上げた月の輪郭が夜空に溶ける。
 滲んだ目元を堪えて、視線を落とした。
 こんなところで油を売っている場合ではない。
 どんなに恋い焦がれても変わらない現実は、フィリーナを夢の世界から放り出す。
 ようやく気を取り戻して、仕事に戻ろうと頭を切り替えた。
< 178 / 365 >

この作品をシェア

pagetop