能ある鷹は恋を知らない
カラン、と氷が溶けて音を立てたブラックコーヒーを見つめた。
傾いてきたオレンジ色の夕日がきらきらと水面に写り込む。

どうして私はせっかくの休日にこんな気分にならなくちゃいけないの。

半ば強引に向かいに座った元恋人は眉をハの字にして口をつぐんでいた。
店員がアイスコーヒーをテーブルに置き、ようやく顔を上げる。

「芹香、無事で良かった。あれから連絡も繋がらないし、家に行ったら引っ越したって聞いて心配してた。まさか東京で会うなんて…びっくりした」
「私がどこに居たってもう関係ないでしょ」
「…そうだよな、ごめん。ほんとに、俺が悪かった」

もう話すことなんかないと思ってた。別れを撤回するつもりも、謝罪もいらなかった。
別れた直後だったら絶対聞かなかった。

でも。

今の私には聞きたいことが一つだけあった。

変わりたい気持ちがある。
その為には、自分と向き合うことが必要だと思っていた。

いつも、同じような別れになってしまうその原因を知りたかった。

「…どうして、浮気したの」
「…ごめん」
「謝って欲しいんじゃない。責めたりとか、そんなんじゃなくて…純粋に聞きたいだけ」

そう言うと孝太は一瞬苦しそうに眉を顰めたが、ゆっくりと口を開いた。

「芹香が嫌いになったとか、飽きたとかじゃない。むしろ逆だった」
「逆、って…どういうこと」
「正直、人生で初めて結婚とかも意識してた。このまま芹香とずっと一緒にいたいって思ってた」

そんなこと、初めて聞いた。
「結婚」なんて単語が孝太の口から出るなんて。

なんだか嫌に鼓動が速くなる。
孝太は顔を上げて私の目を見た。

「俺も芹香に聞きたい。…芹香にとって、俺は必要だった?」

なに、それ。

「俺は…どこかいつも一線を引かれてるように感じてた。何かあっても『大丈夫』って言われるともうそこから踏み込めなくて、お前にとって俺ってほんとに必要な存在だったのか、分からなくなったんだ」

まるで後ろからハンマーで頭を殴られたようだった。

二年という時間の重さの掛け違いはそんなところから始まっていた。
恋人になったからにはもっと好きでいてほしくて、自分に自信がなくてどうしようもないコンプレックスや脆さなんて見られたくなくて。
いつも笑顔で明るいあなたの隣に似合うような女性になりたくて。
ただ好きで、好かれたかっただけのはずなのに。
その根底から私が間違っていたの。

「もっと、話し合えば良かったのかもしれない。でも、俺も向き合うのが怖くて…結局現実から目を背けるように、バカなことして…。悪かった、芹香」

突然浮気されて二年の価値があなたと私じゃこんなにも違ったんだなんて被害者ぶってた。
笑い合っていた時間から少しずつ私が苦しめていたことにも気づかないで。
なんて馬鹿なんだろう。
それで一方的に別れてお終いなんて。
私の方がよっぽど傷つけておいて。

なんて浅はかなんだろう。

「…ごめんなさい…っ」

耐えられなかった。顔なんて見られずに言い逃げ同然に店を飛び出した。

「芹香!」

名前を呼ぶ声ももう聞きたくなくて無視して走った。
夕陽がいまにも消えてしまいそうな黄昏時。
顔がはっきりと見えなくて良かった。
泣きながら街中を全力で走る姿なんて誰にも見られたくない。

どうして自分は誰の特別にもなれないのかと思っていた。

無意識に自分の中に巣食う劣等感。
そんな自分を誤魔化して、繕って。
そんな人間が人に好かれようなんて思うことが間違っていた。
だって私はこんな自分が大嫌いなのに。
自分のことを好きになれない人間が他人に好かれようだなんてなんておこがましい。

消えたい。私が消えたってこの都会の誰にも気づかれない。

もう、人を傷つけるのも、傷つくのもいやだ。


息が切れるほど走って、また走って。
どこにいるのかも分からないまま走った。
何かから逃れようとするように。
考えることすら放棄したくて。

もう走れなくなって何も考えられなくなったとき、突然肩を掴まれた。

「こんなところで何をしてる」

力強い手で振り向かされたその先に、いつもの涼しい顔がいつになく必死の様子で私を覗き込んでいた。

どうしてこんな時に。

「高島さん…」

もう出なくなったはずの涙が瞬間的に溢れて、気づけば高島さんの匂いと体温に包まれていた。

抱きしめられた腕の中で、まるで子供のように泣く私の頭を大きくて優しい手がずっと撫でていた。

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