どうせ好きじゃ、ないくせに。

一之瀬 慧(いちのせ けい)という名前を耳にすれば、きっと社内中の女性が乙女の表情を浮かべる。そして彼の噂が出回った日には、一日中その話をし続けるのだろう。


彼はそれほどまでに、人々の注目を集める材料を兼ね備えている人間なのだ。


ひとたび視線が交われば一瞬で吸い込まれてしまいそうな切れ長の瞳に、すっと通った鼻筋。滅多に上がらない口角が縁取るのは、ひどく色気を帯びた唇。

もちろん仕事面の腕もピカイチで、入社三年目にして大手の癖の強い取引先ともあっけなく契約を結び、時期課長候補とも言われているらしい。そんな彼を、周りが放っておくわけがなかった。


女関係の噂はそりゃあもちろんたくさん出回っているが、出回りすぎてもはやどれも信憑性を持たない。

…が、しかし。



「まあ真湖(まこ)のことだから無いとは思うけど、万が一プライベートな関わりなんて持って目撃されでもしたら、大変なことになるだろうね」



噂だけでない場合は、一体どうなってしまうのだろう。


まあ、無いとは思うけど。そう念を押しながらもきゅもきゅとトルティーヤを貪る彼女---夏美の言葉に、凍結しかけた表情筋をなんとか動かして笑顔を作る。


彼女は、同じ部署内の唯一の同期であり、友人だ。

休日に会うことは少ないけど、お昼休みや仕事帰りの食事は大体彼女と過ごしている。ちなみに今は、会社のすぐ目の前にあるコンビニで買った手軽な食べ物でお昼をとっているわけなのだけども。



「お、恐ろしいね!一之瀬さんのパワー!」


「まあねえ、多少のリスクを背負っても一之瀬さんとプライベートな付き合いを持ちたい女なんて、そこら中にいるだろうけど」


「は、はは、ははは…」

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