溺愛御曹司は仮りそめ婚約者
でも、まだ安心はできない。なにせ相手は桐島主任だ。どうにか、ふたりっきりのこの空間から逃げ出したい。
逃げ場は、露天風呂だな。あとで入るって言ったし、とても自然な流れなはず。
そう決めた私は、主任を振り返って微笑んだ。
「ううん、じいちゃんうれしそうだったから。こちらこそ、ありがとう。じゃあ、私もお風呂、行ってこようかな」
努めて明るくそう言って、自分の旅行鞄に着替えを取りに行く。
我ながら完璧だ。だが、世の中そんなに甘くはない。自画自賛している私のお腹に、主任の腕がまわった。
「待って、沙奈。さっきの、どういう意味?」
その言葉に、内心でギクリとする。やっぱり聞こえてたか。
温泉に入ったからだろう。いつもより高い主任の体温を背中に感じる。
「こんな契約しなければよかったって。それって、俺と?」
確信をつかれて、ピクリと身体が揺れた。沈黙は肯定。だけど、言葉が出てこない。
「沙奈」
耳元で名前を呼ばれて、背筋がゾクリとした。
低く抑えられた声が、逆に主任の怒りの深さを表しているようだ。
よせばいいのに、沈黙の恐怖に耐えきれず恐る恐る振り返る。そしてやはり、振り返ったことを後悔をした。