溺愛執事に花嫁教育をされてしまいそうです
春先とはいえ、外にしばらくいたせいで
体が冷えている。

どこかで暖かい飲み物を貰おうと思いながら、
ありすがガラス戸を開けて部屋に入ろうとした瞬間。

(……あっ……)
部屋の窓際で、ピアノを弾く男性がいた。

月明かりが差しこむ中、
スーツを脱いで、ベストとネクタイを結んだ姿で、
秀麗な瞳を軽く閉じるようにしている。
鍵盤の上を流れるように
音階を刻む指は長くて綺麗だった。

(どこかで聞いた事のある曲……)
曲名は思い出せないのに、
その旋律は、妙に心をドキドキと騒がせる。
ありすは思わず立ち止まって
男性の奏でるピアノの曲に聞き惚れてしまっていた。

部屋の中では様々な人が
彼のピアノをBGMにして会話を交わしている。
そのくらいその男性のピアノは押しつけがましくなく
パーティ会場の雰囲気に溶け込んでいる。

ついじっと見つめてしまっていたらしい、
次の瞬間、ふと顔を上げた男性と視線が交わる。

「……っ」
ありすを見て、その男性はふっと表情を和らげる。
そのままありすを見つめたまま
最後まで曲を弾き続けると、
最後の音の響きを残してそっと手を離す。
ゆっくりと立ち上がると、
男性はありすの方に歩みを進める。

「はじめまして。ピアノがお好きですか?」
低くて心地よい響きの声に、楽器の演奏が上手な人は
もしかしたら、声までいい声なのだろうかと、
そんな仕様のない事を考えてしまう。

「ええ……あの。はい」
曖昧な返事になったのは、足を止めてしまったのが
ピアノの為ではなくて、
懐かしい気のする曲のせいと、
この男性の風貌に見惚れてしまったからだ、
とは流石に言えなかった。

「先生、背広の方を……」
二人の会話が途切れた瞬間、
さりげなく男性に向かって声を掛けるのは、
ピアノの横に静かに控えていた、
彼よりも年かさの男性だ。

「……先生?」
その関係性に違和感を感じながら、
そうありすが首をかしげると、
シャツの袖を直し、背広を羽織りなおしながら
男性は小さく笑みを浮かべた。
< 18 / 70 >

この作品をシェア

pagetop