日常に、ほんの少しの恋を添えて
 にこやかにそう言うと、お兄さんは立ちあがる。

「用はこれだけだから。じゃ、俺はこれで失礼するよ」

 スタスタと出口に向かって歩くお兄さんは、キッチンにいた私にひょいっと手を上げ「じゃあね」と微笑んだ。
 私は手元に視線を落とし、さっきまでの会話を頭の中で整理する。いや、整理も何もない。専務に本社に来いって言ったんだ。お兄さんは。

「……長谷川」
「あっ、はい」
「さっきの話は、まだ誰にもするなよ」
「もちろんです」

 それだけ私に伝えると、専務は考え込むように額に手を当て、項垂れた。

「……あの、専務。専務を辞められるということですか……?」

 私も混乱している。だけど聞かずにいられなくて、ソファーに座っている専務に問う。
 専務は私をちらっと見てから、また目を伏せた。

「まだ分からないけど……藤久良本家の人間は祖父の代から関連企業である程度経験を積んでから、藤久良商事に戻るのが慣例となってる。だから俺もそのつもりではいたんだが……想像していたよりも随分早くて、正直戸惑ってる……」

 このあと数分、私たちの間に沈黙が流れる。
 専務もずっと項垂れたり、ソファーに凭れて天井を見つめたりして思案にふけっているようだった。
 そして私は――
 専務のいない毎日を想像してみた。
 それはほんのちょっと前の私の日常だ。そこに専務の姿はない。
 何のことはない、私が過ごしてきた日々。だけど、今の私はそれに耐えられるのか。
 専務のいない日常に。

「専務」

 私の声に反応し、専務がこちらを見る。

「私の意見を聞いていただけますか?」
「うん?」

 なんだろう、と言いたげな表情の専務は、ソファーに腰掛けて私の言葉を待っている。
 私は――
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