ミツバチのアンモラル
二十秒後、女の人の口元は弧を描いた。直後に伸ばした手は、遅れて出てきた男の人の服の袖あたりをなぞって、緩く掴む。
「圭」
明らかに、情のこもった声で、女の人はまたその名前を呼んだ。
そうしてやっぱり、相手の男の人は圭くんだった。
そこはもうベーカリーの敷地ではなく道路で。私と智也が街灯の下にいなかったのもあるけれど、気づかれることは未だなく、圭くんと女の人はしばらくのときをそこで過ごす。
吉なのか凶なのか、夜の静けさもあって会話はきちんとこちらにも聞こえる。私はそれをひとつも聞き漏らしたくなかったのか、自然と気配を最大限に消していた。
「――じゃあ、期日内によろしくね」
「わかりました」
親しげな女の人に対して、圭くんは一歩引いて応対している。
ちりちり。
「社長が食事でもしながら三人で打ち合わせをしたいって」
「わかりました」
「そのあと、ふたりで呑みにでも行かない?」
「……捕って喰われるのでやめておきます。それと早く帰って下さい。この後人を迎えに行かないといけないかもしれないので」
圭くんはゆっくりと首を振ってお断りをしていた。
少し、困ったように、その王子様のかんばせにある眉は下がっていて。
そこでようやく、圭くんは捕まれていた袖を引き離した。動作は、とても優しく。
もう何度もそんなやりとりを重ねてきたのか、気にしない素振りをしながら、微笑んで女の人は圭くんを諌めた。
「いい加減、誘いのひとつでも乗ってこないのかしら、この男は」
傷ついた様子もなく、誘惑を隠さない女の人の指先が、圭くんの頬をなぞる。
ちりちりと、頭が痛い。
きっとやきもちだ。
私は、圭くんに異性として向き合えて、手を伸ばせる人に心底嫉妬しているのだと、二人の姿を見た直後から痛む頭に少しの間だけ目を閉じた。
そうして、続く会話にその痛みは増幅する。