ミツバチのアンモラル
「……っ……それってどういう……」
「兄貴がより馬鹿になった理由。――てか、華乃はマジで覚えてないの?」
私は、何か忘れているのだろうか。
智也の知ってることって?
圭くんが変わったのはあの事故の前後で。私の記憶がないのは、跳ねられた前後で。
智也が言うのは“そこ”なのだろうか。
「圭」
ちりちりとした。
圭――と隣家の、ベーカリーのほうに続く出入り口と道路の境目あたりから、その声はした。
呼ばれたほうはまだ奥にいるのか、呼んだほうの人物はその場で振り返っていて。ついさっきの智也と私のようだ。
場所が場所で、呼ばれた名前が名前だし、きっとそれは圭くんのことなのだろう。圭くんを呼んだ声の主は、綺麗で大人っぽい女の人。
その固有名詞を呼び慣れているのだろうと思われる、淀みの一切ない発音だった。長い知り合いなのか、親しみが込められていて、それを口にすることを許されているような、窺う気配すらない声色。
ちりちりとする。
心臓が痛く跳ねる。
私と智也は道の端で立ち止まっていたためか、まだ、圭くんを呼ぶ女の人に気づかれてはいなかった。
圭くんを、圭と呼んだ女の人は腹を立てるふうでもなく、一歩だけ道路側に出てくる。その姿が、そこにあった外灯によって鮮明になる。
長身で細身な体躯、けれど、スーツのスカートから出ているふくらはぎにしなやかな筋肉がついていて、それはもうずっと高いヒールをカッコよく履きこなしてきたことを現しているような、キャリアのある仕事をしてきた女の人のよう。実際、きっとそうなのだろう。
圭くんと並ぶ姿はきっとお似合いに見えてしまうのだろうという嫌な未来は、それから二十秒後に現実となる。