ミツバチのアンモラル
「圭……くん?」
こちらに駆け寄ってくる姿を、私はぼうっと眺めていた。今まで圭くんはどうしていたのか――ああ、そうだ。私と智也に気づいた瞬間から心を何処かに飛ばしていた。
「華乃ちゃん」
「っ」
そう呼ばれることを気持ち悪いと思ってしまった。
私のことをそう呼んだのは、朱美さんという女の人。
名前を口にしたあとわかりやすい意地悪な笑みを浮かべ、圭くんから逃げるように、朱美さんは駅への方向に足を向け始める。
去り際、私の耳元に囁いていきながら。
「圭はね、大事な大事な華乃ちゃんのことを、汚したくなるんですって。でも誓っていけないことだから、そんなときは他の女を代わりにそれをしてるのよ――華乃ちゃんに似た女を使って」
あとを濁して、朱美さんという女の人は帰っていく。
後ろ姿は少しずつ闇に溶けて見えなくなるけれど追いかければまだ間に合うのに、誰もそれをすることはなかった。
「……」
入れ違いにこの場にやってきた圭くん含め、皆が紡ぐ言葉をなくして立ち呆ける。
いつも穏やかで私最優先で、なにからも守ってくれようとする王子様な圭くんは一切消え失せ、さながらドラマでよく観る浮気を現場で暴かれた人のよう。――言い訳は、しないんだな。
それもそうか。ここに圭くんの恋人はいないのだし。
……なのに、あの女の人が残していった言葉たちが渦巻いて消えてくれない。
見上げれば、視線が一瞬交差する。圭くんと。
途端に逸らされ、傷ついた私よりも傷を負ったような圭くんの表情に、私もまたぐさりと刺された。
ちりちりと、もうどこが痛むのかもわからない。