偽りのフィアンセ
彼女に別れを告げ、立ち上がった少女がゆっくりと振り返った。直ぐそばに立っていた父に拳を振り上げながら──。
「あっ」と誰かが声を上げた。だが、直ぐに静まり返る。少女の拳が父に届くことはなかった。
まるで、それを予測していたかのように、いつの間にか少女の直ぐ後ろにいたカナメさんが、その腕を掴んでいてた。「駄目だよ、サヤ」と、穏やかな口調で言い聞かせるように囁いて 、少女の握られた拳を優しく開かせる。
「グーで殴ったら怪我するだろ?……サヤが」
とびきり甘く微笑んだカナメさんの言葉に、この場にいた誰もが唖然と口を開けた。
「そこかよ!」
そしてそれは、弟の笑いを含んだ声と、殆ど同時だった。
──パンッと乾いた音が響いた。
少女が開かれた手をそのまま振り抜いて、父に平手打ちをお見舞いしたのだ。
半開きだった口を更に大きく開け、青くなる大人達を他所に、微笑みを崩さないカナメさん。殴られたにも関わらず、楽し気な表情を浮かべる父。そんな父を睨みながら、『汚らわしい』と言わんばかりに父を殴った手をカナメさんに擦り付ける少女。そして──。
「……兄貴?」
隣から聞こえた弟の困惑したような声。その時、初めて自分が笑っていることに気がついた。