プラス1℃の恋人
「先日、宮城の醸造所に行ったんですよ。そしたら、今年のホップはかなり出来がいいと聞きまして。試飲したところ、従来のものよりも癖がなく、料理の味を損なわないものだと感じました。それで、仁科さんにおすすめしたいと考えたわけです。勝手なお願いなのですが、納品したものをいったん持ち帰らせていただき、あらためて新商品を納品させていただけないでしょうか」

 仁科が怪訝そうな顔をしたのを、青羽は見逃さなかった。

 それはそうだ。
 おそらく契約前にも念入りに話し合い、テイスティングもして納入する商品を決めたはずだ。
 それを今となって別のものに変えろというのは、あまりにも勝手な話だろう。

 仁科は青羽の顔を見て言った。

「あなたはどう思います?」

「わ、私ですか?」

「ええ。千坂さんには今日、我々の仲介役となれるような信頼できる人をひとり、紹介してくださいとお願いしてしていたんです。どんな人か、率直な人となりを見たくて、取引の内容や僕のことは、秘密にしていてもらいました。千坂さんの人を見る目は、確かなようですね。あなたは僕の噂を知っていたけれど、不躾に好奇心をぶつけてくるようなことはなかった」

 ――知らなかった。今日のディナーが、そんな大事な意味を持っていたなんて。

 それにしても、噂になっていた女優の話を持ち出さなくて、本当によかった。
 取り返しのつかない事態になるところだった。

「それにさっき、あなたは勧められてすぐにバラのゼリーを食べたでしょう? そのとき、この人は素直で正直だな、と僕は思ったんです」

 この仁科という男、侮れない。

〝正直な人だなと思った〟という言葉の裏で、〝きみは正直に事情を話してくれるよね〟と暗に言っているのだ。

 千坂が今回の取引を持ち出した事情を、青羽は知っている。
 でも、それを素直に話したらどうなる?

 下手をすれば、大きな取引先である仁科とも、児嶋が新たに契約したところととも、一気に関係が崩れる。
 いままで頑張ってきたみんなの仕事を、台無しにしてしまうかもしれない。
 それどころか、会社自体が危機に陥るのではないか?
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