プラス1℃の恋人
「ちょっと、お手洗いに行ってきます」

「おう。相当酔っているみたいだから、気をつけろよ」

「はい」

 思い切り椅子を引き、青羽は振り返った。

 が、そのとき、お酒を運んでいたウエイターとぶつかってしまった。
 前髪を手で払った拍子に、ぼたぼたと水滴が落ちる。

「申し訳ありませんっ!」

 ウエイターが運んでいたお酒を、頭からかぶってしまったらしい。
 泣きっ面にハチ、とはまさにこのことだ。

「っくしゅ!」

 ぶるりと震えが走り、くしゃみが飛び出す。
 おまけに、お酒が沁みて、目が開けられない。

 すると、スーツの上着がバサリと頭の上からかけられた。

「なにやってんだよ、おまえは」

 かぶせられたスーツの上から肩を抱かれ、裏口からそっと外に出る。
 そしてエレベーターではなく、非常口のほうへ連れていかれた。

「あの、主任……」

「その格好じゃ、帰れないだろ」


 ちょっと待ってろ、と言って、千坂は非常口の陰に青羽を押し込むと、背中を向けてどこかへ行った。

 そしてしばらくすると戻ってきて、「行くぞ」と非常口の扉を開けた。

「あの……どこへ?」

「ここの下にホテルがある。エントランスまで下りてエレベーターを乗り換えるより、こっちのほうが早い」

「ホテル?」

「安心しろ。今日はなにもしない」

「今日は?」

「あー、うん。なにもしない」

 階段の手すりにつかまりながら、スタスタと下りていく大きな背中。
 青羽は状況についていけず、その場に立ち尽くす。

 千坂は踊り場まで行くと、立ち止まっている青羽に向かって手招きした。

「酔っぱらって歩けないか?」

「あ、いえ、大丈夫です」

 戸惑いながら、青羽はゆっくりと階段を下りた。
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