プラス1℃の恋人
 伝票ミスのあったあの日から、青羽は1年近く児嶋に口説かれ続けていた。

「あのとき、須田さんの言葉に、ものすごく救われたんです」

〝ごめんなさいは、もういいよ。ありがとうございましたって言おうね〟

 それは本当は、青羽が新人のころに千坂から聞いた言葉だったのだが、児嶋には秘密にしている。


 児嶋は見た目もよく、1年前に比べたら仕事もできるいい男に育った。
 女性社員からの人気もあるらしい。別のフロアで働いている若い女の子から食事に誘われている姿を見たことがあった。

 でも児嶋は、青羽がいいという。

 嬉しいけれど、青羽はまだ、新しい恋に飛びつく気持ちにはなれなかった。

 夏の花火のようにぱっと咲いた恋は、意外とすぐに散るものだ。
 けれど、じっくり温められていった焼け石のような恋は、簡単に冷めたりはしない。

 恋は、しようと思ってするものじゃない。落ちるものだ。

 そう言ったのは、誰だったっけ。


 青羽はいまだに、千坂のことが好きだった。

〝いちどだけ抱いてください。それできっぱり諦めますから〟

 約束どおり、会社のなかでは上司と部下としての節度を保っている。

 所属部署が変わったとはいえ、マーケティング部のデスクは目と鼻の先にある。
 顔を上げればクマのような姿が見えた。

 最初の数か月はつらかったけれど、人間、意外と耐性というものができるらしい。


 部下としての自分だけは認めてもらいたいと、青羽はがむしゃらに仕事を頑張った。
 その結果、責任のあるポジションを任されるようになった。

 気持ちにも生活にも、余裕ができた。
 5階にあるジムにも入会した。
 ときどき仁科と一緒に、英語で会話をしながら汗を流す。

 ジムは社交の場でもあり、地下5階から地上55階まであるオフィスビルのイケメンエリートにも知り合いができた。
 自分が、意外と外国人にモテるタイプだというのも、はじめて知った。

 恋をすれば女はきれいになるという。
 でも、身も心も健康でなけなれば、いい恋なんてできないのだ。

 なーんて、自分も言うようになったじゃないか。
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