愛し君に花の名を捧ぐ


「姫さま、もうお帰りですか? お気を付けて」

「ありがとう! あなたも元気な赤ちゃんを産んでね」

 真っ直ぐに城を目指すリーリュアは、いまにも弾けそうな腹を抱えた妊婦へいたわりの言葉を返す。
 道中、町娘に扮したつもりの自国の王女を見かけた街の人々から、気易く挨拶を投げられたり頭を下げられることは、数え切れない。それらに花のような笑顔で応えるリーリュアには、あんな簪は必要ないと思う。
 なのにふと、キールは目の前で揺れる髪を、さらに美しく飾りたい衝動に駆られた。

「姫さま」

「なあに?」

 キールの呼びかけで、リーリュアの脚が止まる。その脇を走り抜けていった馬車がおこした風が、彼女の髪を乱暴になびかせた。
 砂埃でも入ったのか、リーリュアはしきりに目を瞬かせる。具合いを確かめるために伸ばした手を、キールは陶器のように滑らかで白い肌に触れる寸前で引き戻した。

「こすっちゃ、ダメです。どこかで目を洗ったほうが……」

 視線を巡らせ水場を探しに行こうとするも、身体は前に進まない。上着の背中を掴まれてしまっていたのだ。

「大丈夫よ。急ぎましょう」

 振り返ると、リーリュアは僅かに赤くなり潤んだ眼をやや伏せ、乱れた髪を耳にかける。ただそれだけの仕草が、キールの鼓動を速めていく。
 露わになった白い首筋から思わず目を逸らし、零すように囁いた。

「……さっきの髪飾り」

「うん?」

「オレが買ってあげます!」

 意を決し宣言してみせれば、大きく見開かれた翡翠色の瞳が真正面からキールを捉えていた。

「なに言ってるの? とっても高いのよ」

「す、すぐには無理でも、入隊して近衛騎士になれば、あんなのいくつだって!」

 耳と顔を真っ赤にして言い募るキールの亜麻色の髪を、リーリュアはくすくすと笑いながらかき混ぜる。 

「ありがとう。でも気持ちだけで十分よ。いつかその日がきたら、ラリサになにか買ってあげなさいな」

 キールの母親の名を出し、両手で裾を少しだけつまみ上げて細い足首を覗かせる。

「さあ! 早く戻らないと、母さまの怖い怖い雷が落ちるわ」

 リーリュアはぶるりと小さく身体を震わせると、王城へ続く坂道を駆けだした。 


◇ ◇ ◇


 向けられた宝玉のような緑の瞳は、少し不安げに揺れていた。

「ねえ、やっぱり変なのよ」

 細い首が傾けられる。
 結い上げた髪でしゃらりと澄んだ音色を奏でたのは、あの日商館で見たものにも引けを取らない、見事な細工の金歩揺だった。



 ―― 了 ――


2017/12/09 UP

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