そろそろ恋する準備を(短編集)
真夜中、土砂降りの山道を一台の車が走っていく。ワイパーが壊れて飛んで行ってしまいそうなくらい激しく振られているけれど、視界はすこぶる悪い。
激しい雨音と重苦しいBGMが、この先に待ち受ける恐ろしい出来事を暗示している。
開始二分で、もう帰りたくなった。
「はい、はるちゃん、コーヒー」
「あ、りがとうございます……」
わたしがいつどのタイミングで逃げ出すか考え始めたなんて知る由もない朝比奈先輩は、ゆったりと隣に座ってコーヒーを啜っている。
テレビの中ではワイルドな運転手が、何だかよく分からない化け物に襲われている。悲鳴と激しいブレーキ音、それが止むと、雨音だけが無常に響いていた。
もう逃げ出したい。朝比奈先輩の家は初めて来たし、ここまでの道中も初めてだったけれど、同じ町内だし帰れないことはない。万が一迷ったら携帯に内蔵されている地図を見れば良いし、人に聞いても良い。
開始数分ですでに怖いなら、この先どんどん怖くなるはずだ。逃げるなら今しかない……!
ちら、とリビングの扉を確認し、腰を上げかける、と。
「はるちゃん、怖いなら抱きついていいよ」
タイミングを見計らったかのように声をかけられ、こちらのタイミングは外されてしまった。
「……お断りします」
「あはー」
あはー、なんて気の抜けた笑い声を出しているけれど、このひとは分かってやっているはずだ。
もう一度逃げ出すタイミングを計りながら、クッションを強く抱き締め、顎を引いて目を細めて、画面を直視しないようにした。
映画が進むにつれ、化け物に襲われる人たちが増えていく。口にしたくないからはっきりとは言わないけれど、画面の色は黒と緑色と赤だ。そして大勢の人の悲鳴と怒号。それがひたすら繰り返されている。唯一の救いは、化け物の姿がはっきり映らないことだ。
わたしの目線と気分はどんどん降下していって、開始一時間を過ぎる頃には、逃げ出す気力も無くなってしまった。
ひどい。これはひどい。今まで朝比奈先輩から数々のセクハラといじわるをされたけれど、今日が一番だ。これはもう結構な物をもらわないと割に合わない。どうしてここに来てしまったのか。初めての二人乗りで気分が良くなり、ここに来ることを了承してしまった一時間前の自分をぶん殴ってやりたい。