そろそろ恋する準備を(短編集)
グロテスクな映像より、自分の声が震えていたことより、押し倒されたことより、何より驚いたのは朝比奈先輩が、出会ってから今までで一番、真剣な顔をしていたことだ。
「せ、先輩……?」
手が、頬に添えられる。
心臓が、跳ねた。この距離と身体の密着具合なら、ばくんばくんとうるさい鼓動は、朝比奈先輩の耳にも届いているかもしれない。
視界に映るのは、形の良い薄い唇。それがゆっくりと近付いてきて、そして……。
かぷ、と。
「ふがっ」
な、なに? 鼻! 鼻食われた! 先輩に! 鼻食われた!
え、え? 鼻って食べるものだったっけ? 息を吸うとかにおいを嗅ぐとか、そういうものじゃなかったっけ?
初めての経験に混乱していると、朝比奈先輩は「ふがってなに」と笑いながら身体を起こす。
わたしも慌てて起き上がって、変態から距離を取り、食べられた鼻を必死で擦る。
「な、なんで鼻食べたんですか!?」
「なんでって、目の前にあったから」
「目の前にあったからって食べないでください!」
「キスなら良かったの?」
「良くないですけど……!」
良くないけど、鼻を食われるよりはまだマシだった気もする。いや、マシだってだけで、どちらもお断りしたいことだけれど。
意地悪く笑う先輩を睨みながら、必死で息を整えた。心臓が痛い。心臓が皮膚を突き破って飛び出しそうなくらい激しく動いている。
でも違う。このどきどきは、きっと映画のせいだ。そして鼻を食べられたせいだ。決して、朝比奈先輩と身体を密着させて、キスをされそうになったからではない。キスを期待したからではない。と、言い切りたい、のに……。