金木犀の季節に



やがて、お互いの体温が離れることにに多少の名残惜しさを感じながらも、二人は離れた。

「最後に、聞いて欲しい曲があるんだ」

荒れる天気の中、奏汰さんは言った。

「こんなに雨降ってるところでバイオリン弾いたら……」
「いいんだ」

数分ののち、奏汰さんは演奏を始めた。
曲は、エルガー作曲、『愛の挨拶』。
その長い腕で弓を操り、美しい指で弦に触れ、次々と音が生まれる。


雨が関係したのか、音はずれていたし、響きはすごく悪かった。

……でも、今までにないくらい、胸に響いた。


台風が上陸しているとは思えないくらい、ぽかぽかする。
まるで、暖かい太陽の光の下、砂浜を駆け抜けているような、そんな感じだ。
目を閉じると、白い泡を作って、寄せては去っていく、波が思い浮かぶ。


それにしても、切ない挨拶だ。
朝に交わすような軽いものではなく、もっと重くて、深くて。
でも触れたら崩れてしまいそうな、フラジャイルな挨拶。


耳を通じて心に届く柔らかい音色が、目に見えるすべてを彩った。
暴風になすすべもなく散らした金木犀の花さえも、何かを飾る花吹雪のように見えた。


そして、なにより。
体を揺らして、バイオリンを弾く奏汰さんの姿は、とても格好よかった。



このすべてを、私は心に、体に、目に、焼き付けておきたいと切に願った。



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