恋におちて
チェックアウトの時間を過ぎた
ロビーはとても静かで、
ラウンジで待つ母の姿を
すぐ見つけることができた。
どの席からでもホテル自慢の
日本庭園を望めるように
一面ガラス張りになっているから、
秋の柔らかな日差しの中にいる母が、
とても気持ちよさそうで
さっきまで格闘していた羞恥心を忘れて
思わず笑ってしまった。
「お待たせ」
見事なまでに手入れされている景色に
夢中だったのか、私が声をかけるまで
人が近づいてくることに気づかなかった
母の肩がわずかにビクッと揺れた。
「まだ、時間は大丈夫?」
母の飲みかけのコーヒーを見て、
私も何か頼もうかとメニュー立てを見る。
「少しぐらいならあるんじゃない?」
時計を見る訳でもなく、
景色を眺めながらの適当な答えに
また笑ってしまった。
「ホントに好きね…」
オレンジジュースを頼んで
母の視線の先の庭園を私も眺めた。
「ここは30年前と何も変わらないのね」
独り言のように囁かれた言葉に
少しだけ切なくなった。
30年前の桜の季節に、
この庭園で父が母にプロポーズを
したらしい。
父が亡くなって20年…
話しかけても答えてくれない人を
母はいまだに想い続けていた。