秘書と野獣
時間も感じないほどに会話が弾み、気が付けばあっという間に終電の時間が迫っていた。結局一度も自分だと名乗り出なかったウサギに、さてこの後はどうしようかと考える。
ふと後ろを振り返ると、いつの間にか立ち止まっていたウサギが数歩離れた場所に佇んでいた。その顔は今にも泣きそうなほどに儚げで。
「……どうかしたの?」
その問いにも答えない。
その沈黙こそが全身から離れたくないと言われているような気がして、一気に距離を詰めると俯いたままのウサギに顔を寄せた。
「…帰りたくない?」
それは期待を込めた問いかけだった。
お前がイエスと言えば、俺は迷うことなくその手を掴んで離さない。
…いや、たとえノーだと答えても帰す気などなかっただろうが。
ただお前の口からその言葉が聞きたかった。
「……帰りたくない」
震えながらか細く呟かれた言葉は、だがはっきりとこの耳に届いた。
瞳を潤ませて自分を見上げる儚げな姿に、今まで感じたこともないような感情が湧き上がってくる。愛おしいとか守りたいとか、とても一つの言葉では言い表すことができないような、そんな得体の知れない感情が。
「…わかった。行こう」
ウサギの手をグッと握りしめると、やはりその手は少し震えていた。
だが掴んだこの手を絶対に離したりしない。
力強く一歩を踏み出すと、まるで寄り添うようにしてウサギも歩き出した。