どきどきするのはしかたない
見境無く、どこかのお店に飛び込んでお酒を飲みたいとか、そんな事は無かった。
とにかく、一刻も早くここから離れたかった。自分の部屋に逃げ込みたかった。
ここで、課長の前で泣きたく無かった。
エレベーターの下向きボタンを連打した。
お願い…早く、開いて。
はぁ…どうして別の人と結婚なんてするの、って、泣いて喚き散らしたら良かった?
ううん。…そんな事をしても何も変わりはしないだろう。言って変わるような内容の話では無い。きっと、結婚はとうに決まっていた事なんだろう。
そんな事をすれば、また…ただ抱いて宥められるような気がした…。
そんな風にして誤魔化されて、ずるずる続ける事になるのは嫌。まっぴらだ。
課長は、初めから私と結婚する気があってとか、大事な気持ちがあって、つき合っていた訳じゃ無い。…そういう事だ。
はぁ、追い掛けては来なかった。でも、携帯はずっと震えていた。
止まってはまた震えていた。
エレベーターが下に着いた。ドアが開いた。
通りまで駆け出して、足が次第に止まった。
…頬が濡れた。私じゃない…涙…じゃない。
仰げばポツポツと雨粒が落ちて来ていた。
…雨だ。…はぁ。
雨足が強くなった。周りの人の動きが俄に早くなった。
目的地にひたすら向かおうとする人。雨宿りに店に飛び込む人。
手を繋ぎ、女性を気遣いながら走っているのはきっと恋人同士…。
バシャバシャと水をはね、行き交う。立ち止まったままの私はどんどん追い越された。
…はぁ、…雨か。今の私には丁度良かったかな。
傘は勿論持っていない。
走っても、歩いても、濡れる量に大して差は無いって言うし…。
コツ、コツ、と歩き始めた。
暗いし、雨を気にしながらだったからだろう。
後ろから走って来た人が少し肩に当たった。ちょっとよろけた。
「…あっ。ごめん、大丈夫だった?」
大丈夫だ。強く当たって転んだ訳でも無い。痛くもない。
「…大丈夫です」
俯いたまま、気の抜けた、感じの悪い返事をしてしまった。相手を気遣うだけの余裕も今の私にはなかった。
「あ、じゃあ、ごめんね」
はい。気にしないでください、私は大丈夫ですから。
お急ぎなのでしょ?もたもたしてたら濡れますしね。
お家で彼女が帰りを待っていたりするのでしょ?…奥さんかな。
どうぞ構わず行っちゃってください。
男の人はまた駆け出したようだ。
ボーッと歩いてんじゃないよって、思われたかな。…邪魔だって。
ボーッとなる時もあるじゃないですか…。そのタイミングって、事情によりますよね?…人それぞれですよね?
どんなに雨脚が強くなったって、走らない人だって居るんです…。
…う、…僅かに零れた涙は、雨と同化して流れていた。