どきどきするのはしかたない

どういう事だろう。会社の人ではないと思う。はっきり誰だか解らないし、何だか声を掛ける事も出来ない。掛けてはいけないと思った。デスクに座る課長の前に立っていた。深刻そう。
…そんな雰囲気だった。

…帰ろう、引き返そうと向き直った。

カタ、ン…。

フロアで音が響いた。
…何だろう、でも、また覗くのも…。覗いたタイミングで視線が合ったりしたら…。

…。

どうしよう、チラッとなら大丈夫かな。

課長…。

…、ぁ、あ、…ぁ。…何…い、や…。

足が一歩、一歩と後ろに…後ずさった。
ドクンドクンと心臓が煩くなった。
少し離れて向き直して小走りで離れた。

気がつかれただろうか。追って来られてるって事は無いだろうか。
近づいて来るような足音はしていないと思う。
チラッと後ろを見た。
誰も来ていなかった。足がもつれた。何とかこけずに走った。

ドキドキする。さっきのは一体…何…ここは会社よ?…。
…知らない、事情なんて知らない…。だけど、誰か、女の人と一緒だった。
見間違いじゃなきゃ、女の人が課長にゆっくり近付いて抱き着いた。…と思う。
…なんだったの?…今の…。

エレベーターの前まで来てもう一度振り返った。
近付いて来る人影はやはり無い。

はぁドキドキする。…苦しい。呼吸が速くて苦しい。胸が、苦しい。

静かだった、だけど、…。
心臓の音が落ち着いて来た。耳を澄ませば、何か、微かに聞こえてる気がする…嫌…。
いつも…遅くなった時って、こんな事、?…。だから誰も知らなかった…課長の˝事情˝…?。
……妄想だけが勝手に暴走する。駄目よ、勝手に想像なんかしたら。悪いことしか考えないんだから。…帰る、…帰ろう。

…ずっと、こんな事を?だとしても…今の私には責められない…。

あ、エレベーターが開いた。乗った。

いつの間にか、下に着いていた。
…歩けない。足が出ない。
何がなんだか解らなくて。この場を一刻も早く離れたいのに足が動いてくれなかった。

開いたドアが閉まる。
しゃがみ込んでしまった。

手が差し込まれた。

「おい、どうした、あったのか?」

あ、…え?この声。

「七、草さん…」

「どうした…。無かったのか、どっちだ」

「……ありました」

辛うじて顔を上げて返事をした。

「はぁ、そうか、良かったな。嬉し涙か?…あってそんなに、動けない程嬉しかったのか…。
違うだろ」

…え?…あ。…。左目の下に触れてみた。…濡れてる。涙?

「鍵は直ぐ見つかりました…訳が解らなくて。…覗くんじゃなかったって、今更後悔しても。…声を掛ける事も…。聞けなくて…。事情があるのかも知れない。これ以上…見ちゃいけないと思って、それで。…逃げるように…」

そうだ。私はあの場が恐くて逃げたんだ。

「…帰ろう。送るからってこの場合も言うのかな。俺達の帰るところ。とにかく、一緒に帰ろう」

「…はい」

腕を引き上げるようにして立たされた。

何故、七草さん…居たのだろう。…心配して来てくれた?
支離滅裂な説明で…何故、泣いている事を、不思議に思わないんだろう。
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