カノジョの彼の、冷めたキス


「エレベーターの扉が閉まる直前に、皆藤さんが渡瀬くんの下の名前を呼んだよね?それで、渡瀬くんのほうに近寄って行ってて……」

「穂花が青ざめてたのは、それを見たから?」


「そうだよ。親しげに渡瀬くんのことを下の名前で呼んで。今だって、階段の上からカップルの声が聞こえてきて。もしかしたら、皆藤さんと渡瀬くんがふたりきりでいるんじゃないかって……皆藤さんはまだ渡瀬くんのことが気になってるんじゃないかって……渡瀬くんがもしかしたら心変わりしちゃうかもって……」


伝えたいことがうまく言葉で纏められない。

話しているうちに、だんだんと感情が込み上げてきて涙目になる。

渡瀬くんはそんなあたしを半ば呆れたような目で見下ろして、それから正面から抱きしめた。


「『穂花と付き合ってるのか』って聞かれたから、『そうだ』って答えた。それ以外は特に会話もせずに、エレベーター降りて別れたよ」


「付き合ってるって言ったの?」

「言ったよ。俺と皆藤の間には、穂花が心配するようなことは何もない。初めからあいつとは何の関係もないから」


渡瀬くんに抱きしめられたことと、彼が皆藤さんのことを以前のように「沙希菜」と名前で呼ばなかったことに少し安堵する。

付き合ってると直接伝えてくれたのだとしたら、そのことも嬉しかった。


だけど……

渡瀬くんの言葉にひとつだけ、疑念を抱く。


「初めから何もないってことはないよね?」


だって渡瀬くん。

付き合い方はどうであれ、あのときはちゃんと彼女が好きだったでしょ?

心に残る不安が消えなくて、渡瀬くんの腕の中でつい反論してしまう。


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