契約婚で嫁いだら、愛され妻になりました
(違う。今のは、忍さんの個人的な意見じゃなく、上の立場から見て言った言葉だ)

 わかってはいても、うっかり勘違いしてしまいそうになる。
 忍が自分のことを、『必要だ』と訴えかけているような錯覚に……。

「あっ。すみません。時間、大丈夫ですか?」

 鈴音は動悸を抑え、平静を装った。
 鈴音が忍の時間を気遣うと、忍はやおら腰を上げ、鈴音に近付いていく。目前で足を止めた忍を、高鳴る胸で見上げた。

「ああ。どうせ午前中は病院だ。ここぞとばかり、ゆっくり向かうさ」

(……まただ。どうしてそういう表情を見せるの)

 自分にだけ曝け出してくれていると勘違いさせる、無防備な笑顔。
 特別扱いされていると思わせる言葉。
 温かく優しい手。

「じゃあ行ってくる。今夜も遅くなるから先に休んでていい」

 忍は廊下に置いてあったカバンを拾い上げ、鈴音に背中を向けて言う。それはさながら夫のようだ。

「お気をつけて」

 鈴音があたふたと忍を玄関まで見送ると、忍は一度振り返る。

 こういうシチュエーションはまだ数えるほどしかないが、いままでならば忍は返事をすることはしてもわざわざ改まって顔を見たりはしなかった。

 鈴音は忍に正面を向いて目を合わせられ、ドキリとした。

(なに……?)

 心拍数はいっそう増し、視線を逸らさぬようにすることで精一杯。比べて忍は、相変わらず落ち着いた様子に見えていて、自分だけが動揺しているのだと思った。

 ほんの僅かな時間なはず。それなのに、もうずいぶん長いこと見つめ合っている気さえした。
 すると、忍が微笑とともに口を開く。

「鈴音も」

 それだけ言い残し、忍は背を向けて出ていった。

 鈴音は拍子抜けしたと同時に、自分の心臓が異常に騒いでいるのを感じ、しばらくその場に立ち呆けていた。
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