契約婚で嫁いだら、愛され妻になりました
 鈴音は商品を丁寧に磨きながらぼんやりとしていた。
 手は動かしているが、頭は仕事のことではなく、忍のことを考えている。

(ああいう人って、淡々と仕事をこなしているだけだと思っていた)

 勝手なイメージだったが、漠然とそういう印象を持っていた。
 ゆくゆく父親から引き継ぐ仕事。それが当たり前で、特に情熱も持たず、うまく会社を経営していけばいいというような、淡泊な人間のように思い込んでいた。

(彼は全然違う。勝手なイメージで人を判断してしまって恥ずかしい)

 いつもよりも少し力を込めて名刺入れを拭く。

 上の立場の人からすれば、自分のような販売員なんて存在すら忘れられているものだろうと想像していた。
 実際、鈴音の勤めるチェルヴィーノの上層部がどうかは知らないが、忍は違うとわかった。
 それだけで、なんだかうれしくなったのは事実だった。

(忍さんのところの社員は幸せだな)

 今朝垣間見た仕事に一途で熱心な一面に、鈴音の顔は綻んでいた。

「すみません」
「はいっ。いらっしゃいませ」

 不意に客に声をかけられ、肩を上げる。
 仕事中にボーッとしていたらだめだと戒め、気を引き締め直して用件を聞く。特に問題なく接客を終えると、ほっと息を吐いた。

 商品の取り寄せを承ったが、その商品の担当が今日休みの佐々原だったため、メモを残そうと万年筆を手に取った。

「あれっ」

 書き始めてすぐ、インクが出てこなくて声を漏らす。軸を外して中身を見ると、やはりインクがなくなっていた。

 鈴音はいつも気分転換にと毎回インクの色を変えている。
 さっきまではブラックのインクを使用していたが、今回は以前佐々原からもらった限定インクにした。

 くるくるとインクが出るまで試し書きをしてから、もう一度佐々原宛のメモを書き直す。
 明日は休みだ。きちんと内容がわかるか確認し、メモを折って佐々原の引き出しに貼り付けた。

 それとほぼ同時に閉店の音楽が流れ始める。
 鈴音は閉店作業を進めながら、また無意識に忍を頭に思い浮かべていた。

(そういえば、せっかく今朝会えたのに、寝室の件を話せばよかった)

 あれだけ自室に戻るタイミングを計るのに悩んでいたはずなのに、いざ顔を合わせたらすっかりそんなことは頭から飛んでしまっていた。

 今日も帰りが遅いと言われたのを思い出し、今夜も忍のベッドにお邪魔するのが無難かと考え、そわそわとする。

(今夜で最後にしよう! なかなか顔を合わせる機会がないってわかったし。だいぶ傷も落ち着いているようなので……って手紙で切り出そう)

 鈴音は胸元の万年筆に目を落とし、そう決意した。

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